荒野のないキリスト教は偽のキリスト教だ
カナンの地は自由の型である。
エジプトは奴隷の型。
イスラエルは、エジプトからカナンに導かれた。
モーセは、イエスの型。
クリスチャンは、イエスによって、奴隷の地から自由の地に導かれる。
我々は、今自由への途上にある。
あらゆる迷信、束縛、理不尽、因習から自由になることができる。
そして、最後には死という束縛からも自由になれる。
我々は、その輝かしい未来に向かって前進している。
ただし、注意すべきなのは、途中に「荒野」があるということだ。
荒野を経ないで自由にはなれない。
荒野とは試練の型である。
クリスチャンは、試練を経てはじめて自由になれる。
神の祝福の方法とは、「いったん落として上げる」というものだ。
これは、イエス・キリストの生涯と同じだ。
イエス・キリストが王となったのは、十字架があったからだ。
恥辱と苦しみの後に栄光があった。
それに対してサタンが提供したものは、「苦しみぬきの栄光」だった。
サタンはイエスの前に現れて、「私を拝むなら世界の栄華と権力をあなたに与えよう」と誘惑した。
今、世界を支配している悪魔教徒たちは、この「安易な栄光」の誘惑に乗った人々だ。
苦しまずに栄光など得られない。
そんなむしのよい話などない。
何でもそうだが、価値あるものを手に入れたいなら、長い間の苦しみを経なければならない。
忍耐、忍耐、忍耐。。。
結果が出ない時期を耐え忍ぶことができなければ、何も得られない。
学習能力は、高原という時期を経てはじめて飛躍できる。
飛躍→高原→飛躍→高原→飛躍という順番で成績は伸びる。
学力を高めるには、長い間成績が伸び悩む時期を忍耐しなければならない。
途中であきらめれば学力は伸びない。
同じように、我々の人生全体においても、高原の時期が何度も来る。
飛躍するには、高原を耐えることだ。
あなたの前に「安易な栄光」を提供する人が現れたら疑ったほうがよい。
荒野のないキリスト教は、本当のキリスト教ではない。
2009年7月15日
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