律法はいのちを与えないか?12


<LUKEさん>

>ここにおける律法とは、当時パウロの時代にユダヤ人の間に流行していた律法主義者の「律法」なのです。

ほう、なるほど・・・。律法主義者の律法ですか。これも新しい発見ですね。

すみませんが、再度No.52に対してのご回答をいただければ思います。このレビ系の律法は富井さんのいわれる

>旧約聖書の民にとっての律法とは、「恵みの契約」の中において与えられた「生活指針としての掟」なのです。

ですよね。しかしそれはメルキデク系の律法に変えられたとあるわけです。ではこれは何なのでしょう。

<tomi>

「ほう、なるほど・・・。律法主義者の律法ですか。これも新しい発見ですね。」

パウロは、ガラテヤの手紙において、誰に対する批判を行っていたかといえば、「割礼派」の人々だったですよね。

つまり、彼は割礼派の律法主義を攻撃していた。

この文脈を無視すると、パウロは律法そのものを否定したと誤解してしまう。

ディスペンセーショナリズムは、この誤謬に陥った。

改革主義は、律法を否定しません。ウェストミンスター大教理問答書には次のようにありますね。

「問99 十誡の正しい理解のためには、どのような規則が守られなければならないか。
答 十誡の正しい理解のためには、次の規則が守られなければならない。すなわち、
 1 律法は完全であり、全人においてその義に全く一致し、またいつまでも完全な服従をするように、すべての人間を拘束する。従って、すべての義務に対する最高度の完全さを要求し、またすべての罪の最少度をも禁ずる(1)。1 詩19:7(8)、ヤコブ2:10、マタイ5:21-48」

つまり、「律法を守れ」といっているわけです。

このような教理は、パウロがガラテヤにおいて否定したのは、本来の意味での律法ではなく、割礼派の人々の律法であった、という理解から来ています。

<LUKEさん>

>「このレビ系の律法は富井さんのいわれる
>旧約聖書の民にとっての律法とは、「恵みの契約」の中において与えられた「生活指針としての掟」なのです。
>ですよね。しかしそれはメルキデク系の律法に変えられたとあるわけです。ではこれは何なのでしょう。」

<tomi>
メルキ「ゼ」デク系の律法とは、レビ系の律法が完成した律法、つまり、動物犠牲が実物であるキリストの犠牲に変えられ、人間である祭司がキリストという大祭司に代わった実体的律法のことを指します。

レビ系の律法は、すでに述べたようにプラモデルやミニカーのようなもので、来るべき本当の律法を表す予型でしかなかった。予型は、「弱く無益なため、廃止され、何事も全うしな」(ヘブル7・18−19)い。プラモデルは人を乗せて、道路を走りまわれません。それと同じように、動物犠牲制度は、何も成し遂げられない。それは、本当の犠牲が未来に現れて、信じる者にとって本当の犠牲となってくれることを指し示すことしかしない。

それに対して、メルキゼデク系の律法は、レビ系を祭司とするのではないまったく新しい体系であり、それは、レビ系律法が成し遂げられなかったことを成就した。つまり、レビ系の律法の完成型である。プラモデルから本物の車になり、人を乗せて動き回るという車本来の目的を達成した。

つまり、

レビ系律法=自力救済の律法 対 メルキゼデク系律法=信仰による救済の律法

という関係ではなく、

レビ系律法=予型的律法 対 メルキゼデク系律法=本体的律法

という関係なのです。

レビ系(モーセ)律法は、あくまでも「恵みの契約の中にいる人々に与えられた規則」です。

それは、メルキゼデク系律法になっても変わりありません。

キリストは、レビ系律法を成就され、そのすべてを全うし、メルキゼデク系律法に変化させました。

だから、今日異邦人クリスチャン(つまり、レビ系ではない)であっても祭司になれるのです。

「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。 …

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(1ペテロ2・5,9)

メルキゼデク系律法は、レビ系律法の本体化、普遍化、超民族化です。

 

 

2005年10月13日

 

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