一夫一婦制と幼児洗礼の聖書的根拠
結婚制度ほど、契約をよく象徴するものはない。
偶像礼拝をしたイスラエルは、「姦淫の女」と呼ばれている。
ということは、正しい礼拝は、「夫婦間の結婚」なのである。
古代の神殿や日本の神社などに性器が祭られているのは、単なる「豊穣祈願」のためだけではないと思われる。
聖書契約の目標は、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」(出エジプト記6・7)ということにある。
イスラエルの民はまとまって「一人の女性」であり、契約において、神と結婚したのである。
ときどき「キリストは結婚していた」と主張する人がいるが、間違いである。
もしキリストが特定の女性と結婚していたならば、キリストは淫夫になる。
なぜならば、キリストは教会と結婚したからである(黙示録21章)。
ローマ・カトリックの尼僧が独身を貫いて「私の夫はキリストである」というのも間違いである。
キリストは一夫多妻者になるからである。
キリストは、「一人の女としての教会」と結婚したのである。
だから、一人一人のクリスチャンは器官である。
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(1コリント12・27)
バプテスマは、このからだへ参加することを意味する。
「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」(1コリント12・13)
キリストと教会が結婚することによって子供が生まれる。
「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15・5)
そして、この実は永遠に残る。
「それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。 」(同6)
私は、ここに幼児洗礼の根拠があると考える。
結婚はキリストと教会の契約を象徴する型である、という聖書の主張を受け入れるならば、生まれてくる子供はキリストにある教会が生み出す永遠の果実を象徴していると考えなければならない。
クリスチャンホームは、キリストと教会の結婚を象徴すべきである。
自分の子供に洗礼を授けない夫婦は、「キリストに忠実な教会から生まれる果実は汚れており、永遠に残るものではない」と告白しているようなものである。
正しい結婚制度とは、キリストと教会の契約を十分に表現するものであるべきだ。
一夫一婦制度と幼児洗礼は聖書から必然的に導き出される正当な制度であると考えられる。
2004年7月29日
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