諸契約はその前の契約の発展型である
ディスペンセーショナリズムは、人類の歴史を「神の試行錯誤の連続」と見る。様々な時代において神は人間をテストし、人間は神の期待にこたえられずに失敗した、とする。
しかし、契約神学は、人類の歴史を「贖いの進展」と見る。人間が堕落した後、神は人間を救うために、贖いの歴史を開始された。原福音からノア契約、アブラハム契約、モーセ契約、ダビデ契約、贖いが進展し、キリストにおいて完成した。
ディスペンセーショナリズムは、アブラハム契約とモーセ契約は互いに対立する原理に基づいていると考える。アブラハム契約では信仰が主要な原理であり、モーセ契約では律法と行いが主要な原理である。スコフィールドは、「アブラハムは、『信仰によって救われる』という信仰義認の道を選択したにもかかわらず、モーセの民は『行いによって救われる』という行為義認の道を選択してしまった。これは失敗であった。」という趣旨のことを述べた。
しかし、契約神学において、モーセ契約は信仰義認という同一の原理に基づくアブラハム契約の発展型である。
エジプトのくびきに苦しむイスラエルの民が神に叫び求めたときに、「神は彼らのうめきを聞かれた。神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起された。」(出エジプト記2・24)
神がイスラエルの民をエジプトから救い、モーセと契約を結ばれたのは、アブラハムとの契約を思い起こされ、契約を履行しようとされたからである。
ウェストミンスター神学校教授ジョン・マーレーは、「イスラエルのエジプトからの救出と、約束の地への導入は、カナンの土地を与えるとのアブラハムへの契約の約束を成就するためであった…」(John Muuray, The Covenant of Grace, p. 20.)と述べた。
イスラエルの民は、信仰によってエジプトから救われた。彼らは小羊の血を門柱に塗ること(メシアの犠牲への信仰)によって神の怒りから逃れ、救われた。
アブラハム契約もモーセ契約もどちらも、原理は信仰義認であり、約束はカナンの土地の獲得である。
アブラハム契約が「族長的契約」であったのに対して、モーセ契約は「民族的契約」に発展している。個人や家単位の扱いから、民族単位の扱いに変わったことによって、キリストにある個人・家庭から、キリストにある民族・社会・国家がどのようなものであるかが明らかになった。
神はダビデのもとに新しい約束をもってやってこられたわけではなかった。また、ダビデの反応も真新しいものではなかった。
ダビデは、「エジプトからイスラエルの子供たちを導き上った」(2サムエル7・6、参照23節)神と契約を結んだ。
ダビデは息子ソロモンに対して、「モーセの律法に書き記されている掟に従いなさい。それは、主が私に関して語られた約束を成就してくださるためである。」(1列王記2・3f)と述べた。
ディスペンセーショナリズムの考えとは異なり、聖書は、モーセ契約とダビデ契約が連関していると教えている。
「このように、モーセとダビデの契約的就任に関する重要なポイントを見ると、契約の継続性が強調されているのが分かる。」(O.P. Robertson, Christ of the Covenants, P&R, p.32.)
さらに、ダビデ契約はモーセ契約の発展型である。
ダビデ契約において、神は約束の土地カナンにおける王国の建設を通じて、「キリストを王とする御国」がどのようなものであるかを啓示された。
新約聖書において、ダビデは、王であるキリストの型として描かれている(ルカ18・38、使徒13・22、使徒15・16)。
結論
このように、アブラハム・モーセ・ダビデ契約は、神の贖いの計画のもとにおいて、メシアによる贖いがいかなるものであるか、そして、その約束の御国がどのようなものであるかを示すために登場した発展的啓示であった。
キリストが登場し、これらの契約を成就されたときに、真の御国が到来し、影でしかなかったものが、実体として明らかにされた。
「キリストが受肉され、『神が民とともにいます』のインマヌエルの原理が完全に成就した。キリストの奇跡の御業によって、神の契約的王国が到来した。新しい契約の時代が正式に開始したのは、契約が保証している諸現実を期待する歴史的期間を経た後のことであった(ルカ22・20)。」(O.P. Robertson, Christ of the Covenants, P&R, p.30.)
2005年10月26日
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