この講師は、再建主義を批判して、こういったという。
セオノミーでは、クリスチャンが多数派を占めたら、同性愛者を処刑しろという。なぜならば、旧約律法でそう命令されているから、と。
このホームページで繰り返し述べているように、旧約律法にしても、聖書から導き出されるいかなる法律にしても、国民の同意なしではいかなるものも社会に適用してはならないのだ。
神はレイプ犯ではない。
神が望んでおられるのは、強制的な適用ではなく、「契約」である。
まず国民が神との間に契約を結んで同意しなければ何も適用してはならない。
モーセ律法においてですら、神はまず民に対して同意を求められた。
民は、「私たちはそれを守ります」と答えた。
ここに契約が結ばれた。だから、神は民に対して律法を適用された。
結婚と同じである。神は、好きでもない人と結婚を強いることをなさらない。
神が二人を結びつける場合、それぞれに結婚したいという願望を与え、その願望を通して結婚に導かれる。
昔教会で「私はこの人にまったく興味がなかったのですが、お告げによって結婚しました」というのが美談として語られたことがあったが、これは、禁欲思想であって、聖書の思想ではない。
雅歌を読みたまえ。男女の性愛を賛美している。
男女の愛と結婚は、キリストと教会の愛の関係を象徴するので、意思に反して行われる結婚は、結婚という聖書の偉大な奥義(エペソ5・32)に対する冒涜である。
そのような証は、キリスト教を安っぽく見せるだけではなく、神を奴隷主・虐待者として描くので涜神罪である。
仕事の選択にしても、結婚相手を探すことにしても、神は必ず我々の心に働きかけ、「興味を持たせる」ことから始められるのだ。
嫌いな仕事や結婚相手ならば、それは、導きではないのだ。
もし、同性愛者に関する旧約律法が自分の考えにとって「行き過ぎ」と思われるならば、それは、神の法がおかしいのではなく、我々の考えが腐っているからだ。
私の子供時代に、同性愛などというものは「ありえない」ことであった。だから、ソドムやゴモラに火の刑罰が下ったことに異論を唱える者はいなかった。
しかし、TVなどで同性愛者が活躍し、女装がはびこるのを見ているうちに、我々の道徳観が狂ってしまった。
神の法が悪いのではなく、我々が堕落したのだ。
それとも、我々は神に言うのだろうか。
「神様、同性愛者だっていい人はたくさんいます。どうしてソドムやゴモラに火を降らせ、人々を焼き滅ぼされたのですか?あなたは残酷です!」と。
我々は、神を裁く者になった。
我々が法になり、我々が善悪を決定できる者になった。
こんなクリスチャンがどうして祝福されるだろうか。
こんな教会がどうして繁栄するだろうか。
いやむしろ、我々は、裁かれるのだ。
神を裁く者、神の法を裁く者は、意図的な反抗者であり、革命家であり、それゆえ、意図的な反抗者の父サタンの弟子である。