ヴァン・ティルからラッシュドゥーニー、グレッグ・バーンセンへ


ヴァン・ティルの読書は、かなり骨が折れると思います。

ラッシュドゥーニーやゲイリー・ノースは読みやすいですが、ヴァン・ティルは、体系的に記述しないという特徴があり、いろんな本を読んで総合的に徐々に分かっていくような部分があります。

ただ、Defense of the Faithはヴァン・ティルの中心的な書物で、問題点がかなりしっかりとまとまっています。

ヴァン・ティルは、「中立はない」ということを生涯をかけて主張した人です。

人間は神によって創造されたので、神の意見を前提として思想を構築すべきだ、と。

それゆえ、神の意見である聖書は前提であって、人間の評価の対象にはならず、人間はただありがたく頂戴する以外にはないのだと。

ここまでは彼は述べたのですが、具体的に何をするかについて言わなかった。

そこで、彼の弟子たちは、分離する。
(1)元に戻る、つまり、人間理性を半分入れた思想に戻る。
(2)ヴァン・ティルを受け入れたが次に進めず停滞する。
(3)聖書律法に行く。

最初(3)のグループであるR・J・ラッシュドゥーニーやグレッグ・バーンセンは過激に見られており、中庸的なジョン・フレームらは距離を置いていましたが、後に再建主義の運動に部分的に関わるようになりました。

結局、聖書を土台として「手をつけずに(批判の対象とせずに)」受け入れるということがなければ、またぞろヒューマニズムによる「人間自律」の世界に逆戻りします。

これは、サタンの手に陥るということと同義です。

ヴァン・ティル主義を徹底すれば、どうしてもR・J・ラッシュドゥーニーやグレッグ・バーンセンに行き着かざるをえないのです。

それ以外の道は、妥協であり、異端への道です。

「聖書はそういうかもしれないけど、我々の教会(教派)は、・・・」という背教の道に行くしかありません。

人間はこの点において傲慢を徹底して打ち砕かれなければならない。

この傲慢こそ、エデンの園におけるアダムの失敗だったからです。

「神はそういったかもしれないけど、私は・・・」という選択こそが、人間の失敗の核心なのです。

 

 

2008年6月2日

 

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