本当の勝ち組になるには
勝ち組と負け組みという言葉が流行している。
年収ン千万以上は勝ち、それ以下は負け、みたいな。
こういう基準を作って自分のことを評価している人は、みな負け組みだ。
どんなに金があって勝っているようでも、負けている。
何に負けているかというと、非合理に負けている。
合理的に考える人は、そんな勝ち負けにこだわらない。
なぜならば、収入とか社会的地位なんてものは、相対的なものだから。
社会的地位が高いから立派ですか?違う。
世の中で出世したいなら、責任を取らないことだ。
責任を部下に押し付けて自分の手を汚さないようにすれば、出世できる。
責任をかぶる高潔な人は、社会的に高い地位を得られない。
もちろん、今高い地位にある人がみな汚いことをしてきたということではない。
神は、祝福として地位を与えてくださるから。
言いたいのは、地位とかお金などというものは、成功のバロメーターではないということ。
何が成功か?
それは、誰がこの世界の価値を決定しているかを知ること。
もちろん、神だ。
世界を創造され、それを日々維持しておられる神がこの世界のすべての価値を決定する。
だから、我々は、この神の価値観を自分のものにしなければならない。
たとえば、神様を信じて毎日努力して、仕事をしたが事業で失敗したとする。
それは失敗か?
NO!だ。
なぜか。
精一杯努力して、それでうまくいかなかったという結果がある場合、その結果を決めたのは神である。
神がその結果を決めたのだから、神の目から見て成功である。
だから、我々は成功した!
今私が努力しても、一日数百人のページ閲覧者を得ることしかできない。
マスコミを通じてならば、一瞬にして数千万の人に宣伝できる。
人々は、マスコミを信じて、そこに群がる。
しかし、だんだん世間はマスコミが偏っていることに気づきはじめた。
結局、神の目から見て、嘘を垂れ流すマスコミの価値は無に等しい。
神の目から見れば、地方の数人の信者が集う教会において、聖書からメッセージする牧師のほうがはるかに尊い話をしている。
彼こそが成功者だ。
マスコミは失敗者。
人々は「結果がすべて」というが、これは、結果教というトンデモ宗教である。
結果がすべてであるならば、あの地方の教会の牧師は、敗北者だ。
クリスチャンも、フラー神学校の教会成長学に影響されて、人数が多いことを成功と考えるようになった。
教会は大いに堕落した。
神の視点から見ないで、人間の視点から見るようになったことが原因だ。
フラー神学校は、教会に大きな誘惑をもたらした。
何が成功で、何が失敗か。
これについて我々は考え方をしっかりと定めるべきだ。
人が何を言おうが、親戚が何を考えようが、近所の人々が何を言おうが、マスコミがなんと評価しようが、神に従って結果を気にせずに、自分に与えられた使命をコツコツと果たすことが成功した人生だ。
自分がやったことがどれほどの実を結ぶかなんて気にするな。
ある牧師は、生涯の中でどれだけ大きな会堂を建てられるか気にしていた。
そのために、他の牧師に嫉妬したり、優越感に浸ったりしていた。
いつのまにか、教えの内容が変わった。
「人を集めるには、罪という言葉を使わないで、もっとやわらかい『弱さ』という言い方をしよう」といった。
サタンに騙されたのだ。
そして、ついに異端となって、正しい人は去った。
この牧師は、失敗した。
この牧師は、負け組みとなった。
あなたは、世間の評判をまったく気にしなくなるまで徹底して神だけを見上げることができるだろうか。
それを訓練されるならば、あなたはもっとも成功した人生を歩むことができるだろう。
2010年10月29日
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