黙示録講解3


(3)


イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。
ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。常にいまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、
また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。 (1・1-6)

「イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。」

黙示録は父なる神の啓示である。
父なる神がイエス・キリストにそれを渡された。
だから、究極の啓示者は父なる神である。

ここに黙示録の権威が証明された。
この書は、父なる神の啓示だ。

この世界でこの方を超える権威は存在しない。

だから、我々人間は、この啓示の前で無条件で額づくべきである。

神の口から発したいかなる言葉も我々にとってことごとく絶対の権威である。

だから、黙示録を人間の書として解剖することは許されない。普通の文学書のように科学的文献学的なメスを入れてはならない。

我々がこの書を研究する場合に必要なのは、ただひたすらにこの書から学び、その教えを実行しようとする謙虚な姿勢である。

それ以外の目的で読む人間は、父なる神の上に立とうとする者と同類である。父なる神の上に立とうとしたのは、もちろんサタンである。

認識の出発点を人間の認識能力に置くという近代のヒューマニズム的世界観に基づいて聖書を読むことは許されない。

人間が対象となる書物をテストすることができるのは、もっぱら人間が書いたものである。神の啓示をテストすることはできない。

文明には、神の文明とサタンの文明のどちらかしかない。

神の文明は、御言葉、神の啓示から出発するが、サタンの文明は、人間の認識能力、知恵、悟りから出発する。

神の啓示は神聖不可侵である。神の啓示に対して、一点の疑いも、一点の反抗も許されない。

一点でも疑う、反抗するならば、その時に我々は神の上に王座を設け、神を裁く者=革命家=サタンの一味となる。

サタンの一味が、神の国を相続できるはずがない。

「また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」(黙示録22・19)

ヒューマニズム思想の影響を受けたクリスチャンは、神の言葉を軽視するようになった。クリスチャンから、御言葉に対する恐れは消えた。

聖書から論証できない教えを平気で伝える異端者がそこかしこに現れている。

一つの個所だけから教理を作る人々が多く現れている。他の個所がそれに反論を突きつけているのに、それらを無視して、自分の意見をごり押しする。

御言葉を愚弄する罪、異端、謬説…。これらは「決して」軽微な罪ではない。永遠の命を奪われ、地獄に投げ込まれるべき重罪である。

 

 

2005年3月13日

 

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