<RNCI>
以下は、第12回キリスト教再建主義北西部年次大会の案内状である。何か異なる福音のように感じられないだろうか。
キリスト教再建運動は「聖書には、十字架で流されたキリストの御血による個人的な救いのメッセージだけではなく、これだけが社会の正しい基礎を提供することができるところの包括的な法体系も含まれている」と信じる。
「主権と支配は神に属するので、すべての統治はそれが家族であれ、教会であれ、国家(政府)であれ、神の契約の法に従って実行されなければならない」と主張する。
さらに、「救済」には人間の生活のあらゆる側面が含まれているので、人間が周囲の世界との間に持つ関係も救われなければならないと考える。それゆえ、神の契約の条件に基づく統治は、キリスト教信仰の基礎であり、中心である。これを無視することは、カルバリにおけるキリストの勝利の範囲を軽視することである。
<tomi>
どこがおかしいのだろう? まったく正統的な教えではないか。
自分がかけているメガネが歪んでいるから、正しいものが歪んで見えるのである。
RNCIの諸君。自分が信じているキリスト教が本当に聖書が教えるキリスト教なのか一度、根底から疑ってみたまえ。
(1)
「聖書には、十字架で流されたキリストの御血による個人的な救いのメッセージだけではなく、これだけが社会の正しい基礎を提供することができるところの包括的な法体系も含まれている」
聖書には、社会の基礎となるべき包括的な法体系が含まれている。なぜならば、旧約のイスラエルは、この法体系に基づいて成立していた国だったから。
キリスト教を「宗教的」な領域に狭め、政治的な領域を切り捨てることはできない。なぜならば、旧約聖書においてイスラエルは「政治的な体制」だったから。
イスラエルは「国」だった。イスラエルが新約時代のクリスチャンにとって教訓となるために存在していた以上、この「国」という側面も新約時代に住むクリスチャンの教訓として存在していたと考えるべきだ。
・・・これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。(1コリント10・5-6)
(2)
「主権と支配は神に属するので、すべての統治はそれが家族であれ、教会であれ、国家(政府)であれ、神の契約の法に従って実行されなければならない」
我々は、「御国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。」と毎日曜日祈っている。
つまり、「主権と支配は神に属する」と認めているのである。主権と支配の中に、この地上の国々における政治的主権と支配が含まれないはずはない。もし含まれないというなら「主権と支配」という言葉にはほとんど意味がなくなる。
神と人間は契約を結んでいる。アダムは「地を統治せよ」との命令を受けた。これは、契約であった(ホセア6・7)。人間の本質的な使命とは、この契約の命令に基づいて、地上を神の副官として支配することである。
人間は王として創造されたのである。
しかし、サタンはこの支配権を横領しようとして、アダムを誘惑した。アダムが誘惑に屈したため、この使命を成就できなくなってしまった。キリストはこのアダムの使命を復活された。キリストは第2のアダムであり、アダムが失敗したこの使命を成就された。
キリストは、「わたしはすでに世に勝った(εγω νενικηκα τον κοσμον)」(ヨハネ16・33)と宣言された。
ここで「勝った」と訳されている言葉は、「νενικηκα」は、νικαω(征服する)の完了時制である。ギリシャ語の完了時制は、「過去の動作の結果に基づいた現在の状態を表す」(J・グレシャム・メイチェン、『新約聖書ギリシャ語原典入門』、新生運動協力会)ので、この発言は、「すでに世界を征服して、現在、征服の状態にある」ということを意味する。つまり、聖書は、イエスが<現在>世を征服しているということを強調している。
つまり、イエスは、「地を従えよ」との命令をすでに成就したということを宣言されたのである。
イエスはこの個所の直前で、「勇気を出しなさい」と弟子たちを励ましておられる。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
この意味は、「私がすでに世界を征服したので、勇気を出しなさい。あなたがたは患難に負けず、勇敢に戦いなさい」ということである。
キリストは王権を剥奪されたアダムに代わって王となり、世界を完全に征服された。これは法的な征服である。すでに世界の法的な所有権はキリストに移った。しかし、実際にはそうではない。実際に世界を所有するには、キリストの体である教会が活動しなければならない。世界のあらゆる領域(家族、教会、国家、政府)は、契約の命令にしたがって統治されなければならない。
(3)
「「救済」には人間の生活のあらゆる側面が含まれているので、人間が周囲の世界との間に持つ関係も救われなければならないと考える」
よくクリスチャンが「救われた」というが、何から救われたのだろうか?
単に地獄から救われたということだろうか。
違う。
救いとは、全人的なものである。部分的なものではない。なぜならば、キリストの贖罪は、普遍的だから。神の創造が普遍的であるので、キリストの贖罪の範囲も普遍的であり、あらゆる領域に及ぶから。
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。・・・その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・16、20)
あらゆる領域は、「神の支配の領域」であり、それゆえ、すべては神のご意志にしたがって統治されるべきである。
キリストは、主の主、王の王である。