再建主義は一般恩恵を否定するって?



「再建主義は一般恩恵の存在を否定」とどこかのブログで述べているが、まったくの誤解。

一般恩恵とは、生まれながらの人間(非契約的人間)に与えられた知性、良心などである。

何度も言うが、「再建主義は、既存のカルヴァン主義の教えの延長にある」。

延長にあるということは、それを含んでいるということだ。

どうしてそんなに我々のことを極端なもの、異端的なものとして描きたがるのか?

悪意があると真実が見えなくなるから注意されたし。

自然法を否定するのは、人間の生来の良心とか知性を否定するためではない。

自然法は、ある程度人間の統治のために役立つ。

なぜならば、サタンのように徹底して堕落した人間などいないからだ。

人間は、クリスチャンでなくても、他人を思いやる気持ちとか、動物を愛護する気持ち、良心に従って歩きたいという願い、向上心、科学的探究心、論理を理解する知性などがある。

こういう生来のものを徹底的に否定するつもりはない。

これは、普通のカルヴァン派と同じだ。

再建主義が神の法にこだわるのは、人間の知性や良心が徹底して堕落しているからではなく、「不完全だ」からだ。

自分がよいと思っていることでも間違っていることがある。

たとえば、同性愛についてだ。

TVでこれだけ同性愛者が登場し、中にはすばらしい知性や思考力を持つ人々がいる。

美輪明宏など人生相談などやらせるといいことを言う。

だから、我々はそういう人々に接して「同性愛もいいんじゃないか。人間の生きる一つの選択肢に含めていいんじゃないか」と考えてしまう。

しかし、我々は、聖書からそういう結論を出してはならないと教えられる。

同性愛者に対して神は厳しい。同性愛に堕ちたソドムとゴモラを火で焼き滅ぼされた。

ここで、自然法と聖書法の大きな違いがある。

我々の自然理性では、よしとするものも、聖書では厳禁されている。

さて、どちらを選択するのか。

真のクリスチャンは、聖書法を選択する。

なぜならば、最高権威は神であり、人間ではないと考えるからだ。

偽のクリスチャンは、自然法を選択する。

なぜならば、最高権威は神ではなく、人間と考えるから。

「いや、最高権威を人間と考えても、クリスチャンはクリスチャンですよ」というだろうか。

残念でした。人間理性を最高権威とする人はクリスチャンではありません。


神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。
神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。(箴言30・5-6)

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40・8)

自分の心にたよる者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる。(箴言28・26)

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。(箴言3・5)

まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。(マタイ5・18-19)

また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。(黙示録22・19)

これらの箇所では、明らかに「聖書を最高権威とせよ」と教えられている。

ある道徳的な判断が必要な場合に、聖書法と自然法がぶつかった場合、自然法を選択する人間は、聖書によれば、偽者なのだ。

だからこう結論づけることができる。

すなわち、

一般恩恵は、特殊恩恵に優先しない。

一般啓示は、特殊啓示に優先しない。

本当のクリスチャン、永遠のいのちを与えられるクリスチャンは、聖書と人間の知恵や良心、知性がぶつかった場合に、常に聖書を選択する。

自然法を受け入れるキリスト教の教派は、それゆえ、偽キリスト教であり、地獄を相続するキリスト教である。

 

 

2009年11月19日

 

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