印象は印象に過ぎない
福音派であろうが、リベラル派であろうが、カリスマ派であろうが、御言葉からきちんとした議論ができない教派やクリスチャンに共通する性質は「わがまま」である。
彼らは自分の主張は「絶対に正しい」と考えている。だから、それと対立する主張については、議論は不要で、ただ断罪する以外にはないと考えている。
こういったコミュニケーションができない、また、そうする必要も感じない人間は格好は大人だが、内面は幼児なのだ。
大人というのは、相手を尊重するから、納得がいく説明をして、相手に理解させる努力をするが、幼児はただ泣いてわめくだけだ。
赤ん坊というのは暴力家であり、テロリストである。自分の要求は絶対であると考えており、相手の都合など考えない。夜中でも泣いて家族を叩き起こす。
このような自己中をやっても、大人が赤ん坊の世話をするのは、「この子はまだ赤ちゃんだ。もうすぐ大きくなれば、我慢を学んで他人の世話もすることができるようになるのだから」と期待しているからだ。
赤ん坊のテロリズムが社会的に容認されているのは、「将来を期待されているから」にほかならない。そのわがままは時期限定で許容されている。
しかし、大人になってもいつまでもこのようなわがままをやりつづけ、自分の都合ばかり考えて、相手とのコミュニケーションを取る努力をしないならば、社会からオミットされる。
コミュニケーションを取る努力は大人になるのに不可欠な資質である。異論があるならば、その異論を相手に説明しなければならない。いろんな証拠を用意して相手が納得でき、賛同してくれるような形にプレゼンテーションをまとめあげる必要がある。
こういった幼児が牧師なんぞなれるわけがないから、我々に対して「ヒット・アンド・ラン」(攻撃して逃げ去る)ばかりやっている「聖職者」は、人間からだけではなく、神からも愛想をつかされる。
我々に異論があるなら、次の選択肢のいずれかを選択すべきだ。
(1)議論する。
(2)黙る。
(3)賛同する。
陰口を叩いたり、理由も示さずにただ断罪するなんて違法なことしかできないのは、「議論すれば負ける」と分かっているからだ。
「みんなあなたにこういう印象を持っているんですよ。」なんてのは、理屈にも何にもならない。
印象は印象に過ぎない。よきにつけ悪しきにつけ、本質はいずれ暴露され、正しい評価が下る。
「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。」(ローマ2・6-8)
2004年8月3日
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