現代において使徒はいない
<Q>
さて、一連のニュースレターを拝見しましたが、気になったことがあります。
「使徒」です。
聖霊派では、エペソ4章から「五役者の回復」と称して、現代でも使徒職があると主張しています。曰く、
エペソ4:11では、使徒が筆頭に来ている。しかも、「キリスト御自身が・・・お立てになったのです。」だから、直接啓示で「召命」を受けた使徒職は、教会の最高指導者であり、牧師は使徒の指導監督下にある。当然平信徒は完全服従しなければならない・・・
聖書の恣意的解釈、ここに極まれり、なのですが、「聖霊派」のかなり多くはこれを大真面目に信じて実行しています。
「使徒の**先生に按手を受けて賜物の賦与を受けましょう!そしてあなたも神様に用いられる『器』になりましょう!」
かく言う私も数年前はこれを大真面目に信奉していたのですから、えらそうなことは何一つ言えないのですが、実はこの「使徒」の話には隠された計画があった、ということなのですね。
昨今問題になっている「弟子訓練」も、使徒と称さないまでも同じような傾向(神様が任命したリーダーには問答無用、議論も疑問も厳禁の絶対服従)があります。
そして、「使徒職」を主張する教会はたいてい、この「弟子訓練」システムを導入しています。
アルミニアン神学はカトリック教会への回帰につながる、とどこかで読みましたが、「聖霊派」のルーツはアルミニアン神学ですから、シナリオが見えてきた気がしております。
そして、プレ・ミレもア・ミレも現実逃避だから「献身」を推進する。献身者は当然「使徒」のイエスマン、完全トップダウンのヒエラルキー。
プレ・ミレの、いまや教科書に近いのが「レフト・ビハインド」。ラヘイは統一協会御用達。
ア・ミレの筆頭、狂信的信奉者が多いLloyd-Jonesも医師の職務を放り出して「献身」している。
Lloyd-Jonesはcharismaticだから、福音派と聖霊派はボーダーレスになって、さらに弟子訓練で個人崇拝の基盤が形成される。
しかもLloyd-JonesはCalvinistだから、個人崇拝傾向の強い改革派にも侵食していく。
さあ、いつ「再臨のキリスト」「十二使徒」がやって来ても大丈夫。
主流派?FEBC/エキュメニカルで「クリスチャンでなくても救われる、ナザレのイエスだけがキリストではない」
誰がリーダーでも皆救われる、「一日一善、人類は皆兄弟」
「一日一善」!その通り、善行を積まなければ契約からもれて恵みが受けられなくなりますよ、とFVがささやく。
ああ、かくしてキリスト教会は教派を縦断・横断して徹底的に破壊されていく・・・
<A>
どうも「使徒」を強調する運動には注意したほうがよさそうです。
「使徒」は、聖書に書いてあるように「ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者」であり、「私たちとともにイエスの復活の証人となる」(使徒1・22)人です。
1.十二弟子といっしょに行動した人。
2.イエスの復活を目撃した人。
この2つの要素を、今日の世界で満たすことの出来る人は、もちろん、誰一人としていません。
だから、今の時代に「使徒」はいません。
使徒の賜物は、時代に特有のものであり、それを後世の人々が継承できるようなものではない。
これは律法から明らかです。
律法では、目撃者が証人になれる。
2,3人の証言で裁判の判決が決定される。
それが律法の規定です。
だから、イエスは必ず奇跡などを行われる際に2,3人の弟子を連れていかれた。証言させるためです。
なぜ新約聖書に権威があるかというと、イエスの直接の目撃者かその筆記者だからです。
使徒というのは、イエスの行動の直接の目撃者だったから「証言者としての」権威があった。
我々は、よく「証し」をしてくださいと教会で頼まれる。
厳密に言えば、我々は、証しはできない。なぜならば、我々は直接に主を目撃したわけではないから。
使徒とは特殊なのです。
それを、普遍化するところに何か異常なものを感じます。
おそらく、「組織における自分の権威の絶対化」でしょう。
イエスの直弟子のような権威を身に付けたいと。
自分の言葉があたかも聖書のように、新しい啓示として受け取られるようにしたいと。
恐ろしく傲慢な考え方であり、異端です。
2009年11月30日
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