被造物を滅びから解放してあげよう3


キリストが十字架につかれた時に、天にあるものも、地にあるものも、一切が神と和解した、とパウロは述べた。

「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ1・20)

和解させて「くださるだろう」ではない。

和解させて「くださった」のだ。過去形である。

天地万物は「すでに」神と和解しているのだ。(*)

こう言うと、「では、なぜ世界は神と実際に敵対しているのか?」ときく人がいるだろう。人々は神を無視し、戦争や殺人、盗み、詐欺などを行っているではないか、と。

聖書の「和解」とは2段階的なのだ。

(1)法的和解
(2)実際的和解

薬があっても飲まなければ病気は治らない。
「法的に釈放される権利がある」と言われても、実際に監獄から出るという行為に移らなければ釈放されない。

人間は、「救われて永遠の滅びから逃れる権利がある」!

しかし、キリストを信じて神の主権を認めなければ、実際には救われないのだ。

コロサイ1・20で「被造物はすべて、すでに和解した」と宣言したパウロは、ローマ書で「被造物は救いを待っている」と述べている。

「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」(ローマ8・19‐23)

つまり、法的に被造物はすべて救われて滅びの束縛から解放され、栄光の自由の中に入る権利を与えられているのだが、実際にはまだ滅びの束縛の中でうめいている、と述べているのである。

救いには、2段階必要なのである。

法的権利を得ても実際に動かなければ救いは達成されない。

この個所において、彼は、被造物全体は

「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」

と宣言している。つまり、これは「予定」されていると述べているのだ。神はすでに、被造物を栄光化することを永遠の昔に決定された。

そして、この栄光化の内容とは、「滅びから命へ」「束縛から自由へ」「恥から栄光へ」の変化である。

我々は、

(1)我々自身
(2)被造物

を、実際に「滅びから命へ」「束縛から自由へ」「恥から栄光へ」と向かわせなければならない。

(1)
自分自身について言えば、自分の中にある「滅び」「死」「束縛」「恥」の部分を捨てて、「命」「自由」「栄光」を目指すべきである。

汚れた行為を捨てて、聖さを身につけるようにすべきである。

我々の一生をかけて、自分自身の聖化のために努力すべきである。

(2)
被造物について言えば、クリスチャンが被造物に関わるときに、その被造物は聖められる。だから、クリスチャンは職業や芸術、文化あらゆるものに積極的に関わって、それらを神中心のものに作り変える必要がある。そうするときに、すべては聖くなる。

いわゆる「普遍救済思想」は、キリスト信仰なしでも、世界が聖められていると主張するのだが、まったく間違っている。世界は、「聖められる権利」を持っているが、実際に聖められたわけではない。そこには、クリスチャンの関与が必要である。

「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。」(テトス1・15)

ノンクリスチャンの業はすべてことごとく汚れており、「何一つきよいものはない」。

どんなに善行を行っても、神への反逆の心を持っているので、汚れたままである。

世界を回復する働きはクリスチャンしかできない。

クリスチャンが世界から手を引けば、世界は汚れたままである。せっかっく洗濯機の中に入れてあり、準備万端なのに、スイッチを押さないので、いつまでも汚れている洗濯物と同じである。

クリスチャンは、世界の回復を委ねられている唯一の者であることを自覚して、積極的に被造世界に働きかけるべきである。

(*)
キリストの十字架以前の世界と以後の世界とはまったく異なる。
十字架以前において、パレスチナの土地だけが聖地であったが、以後において全世界が聖地である。だから、「聖地旅行」などという表現は誤りである。

十字架以前において食べ物には「聖いもの」と「聖くないもの」の区別があった。しかし、十字架後においてそのような区別はない。すべてが聖いのである。

今日において聖いか聖くないかは、「そのもの自体」ではなく、「それとどのような心で関わるか」によって決まる。

十字架によって聖められていても、「汚れた、不信仰な人々」が関わると汚れる(テトス1・15)。

 

 

2004年7月15日

 

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