ガラクタを捨ててスリムな生活を送ろう


人間は弱いものだ。
イエスも、十字架をかついでいたとき、もう限界になって、倒れてしまわれた。
そこで、クレネ人シモンがかわりに十字架をかついだ。

倒れて動けなくなることは罪ではない。

自分でもはや責任を負うことができない状況になったら、責任を放棄することだ。

その責任すらも背負うことを望んではならない。

なぜならば人間を越えたものになろうとすることだから。スーパーマンになろうとするのは、自己神格化という究極的な罪である。

仕事が自分のキャパシティを超えたら、仕事を放棄することだ。

そして、それを神に委ねて、あとは知らん顔をすればよい。

「え〜、そんなことクリスチャンがやってもいいのですか?」と尋ねられるかもしれない。

やっていいのだ。なぜならば、仕事は、自分のためにするのであって、自分が仕事のためにあるのではないから。

自分がダメになるくらいなら、仕事なんてやめたらよいのだ。

サタンは、人間に必要以上の責任感を与えようとしている。

そして、過労によってつぶそうとしている。

放縦がサタンの道であることはよく知られているが、禁欲もそうであることを知っている人は少ない。

とくに、日本人のようにまじめな国民に対してサタンは、「責任を最後まで果たす」という決まりを餌に、誘惑をかけてくる。そして、過重な労働を強いて、破滅の道に導こうとしている。

『男やつらいよ』を南米の国の人に見せても受けないそうだ。

なぜならば、向こうの人にとって寅さんの生き方はめずらしくないから。

日本で寅さんが受けるのは、大部分の日本人が社会のしがらみにがんじがらめに縛られているからである。

しがらみにとらわれていない人々が大多数を占めている文化において、寅さんの生き方には何の魅力も感じないだろう。

サタンは、つまらないものを持ち出してそれに固執させ、「これを失ったら俺の人生は終わりだ」と思わせる天才である。

極端なことを言えば、人間にとってキリスト信仰以外のものは、なくてもいいものである。簡単に捨てることのできるものである。つまらないものである。

パウロはかつて自分が大切にしていたものを「ちりあくた」と考えていると述べた。


ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。
私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

私の知り合いに、粗大ゴミで出されたものなどを拾ってきて、それを後生大事にとっておく癖のある人がいる。

家も敷地もゴミでいっぱいである。

そして、友人がやってきて、整理しよう、捨ててしまおうといっても、「これは非常に大切なものだから」といって捨てようとしない。

敷地がゴミでいっぱいなので、駐車するスペースがなくて、路上駐車しているため、何度も切符を切られて、ついに残りのポイントが1点になってしまった。

傍目から見れば、路上駐車で罰金を払うくらいなら、どうしてこのゴミを処分してそこにスペースを作ろうとしないのか、と思うのだが、彼いわく「それはどうしてもできない」のだそうだ。

先日も、どこか遠くのほうに駐車場を借りて、そこに動かない車をおいて、その中にゴミをつめていた。亡くなったお母さんの形見の箪笥とか、たしかに大切なのだろうが、形見なら、小さなものがあるはずだからそれを箪笥のかわりに取っておけばよいと思うのだが、そうはできないらしい。

月々の駐車場料金が2万円である。金銭的に余裕があればよい。しかし、彼は非常に苦しい生活をしている。なぜ、2万円を、動かない車やゴミを置いておくために毎月払うのだろう?

これは、執着の罪である。

我々はこの人を笑えない。なぜならば、人間には誰でも、つまらないものを後生大事にとっておき、本当に大切なものを捨てる性質があるからだ。

価値の転倒は、エデンの園からはじまった。アダムとエバは、神の命令という最も大切なものを捨てて、つまらない木の実を食べた。

人間の堕落の性質とは、「神が大切だと述べたものを捨てて、どうでもよいものやかえって有害なものを大切にとっておく」ことにある。

サタンはこの性質を利用して、我々を無用な規範や物によって縛ろうとしている。

私は、マルタとマリヤの話を読むたびに、日本人はマルタタイプだなあ、と思う。


さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

昔、教会で伝道集会の責任者をしたとき奉仕者に対して「もし仕事がきつく感じたら、休んで、先生のメッセージを聞いてください。残りの仕事は我々がやりますから。」と言ったら、ある姉妹が「それはできませんよ。みんなが奉仕をしているときに、だまってメッセージを聞くなんて。」と言った。

この姉妹は後で教会を離れてしまった。十年くらいたったある日、ある姉妹のところに電話があって、金を無心してきた。

集団の中で奉仕をし、忙しく動き回る人は、たしかにその集団での受けはよい。しかし、教会とは、御言葉を聞いて、養われ、信仰を固くするためにあるのであって、人の間で評判を高めるためにある場所ではないのだから、評判を高めたり、社会的に受け入れられる人間になろうとして疲れてしまい、教会を離れて、信仰を失い、堕落してしまうなら、本末転倒といわねばならない。

イエスは、忙しく立ち回るマルタに対して、

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」

といわれた。

人間にとって、唯一大切なものとは何か。

それは、マリヤが選んだもの、つまり、御言葉である。

御言葉以外はガラクタである。

しかし、残念なことに人類のほとんどの人々がガラクタを集めることに血道をあげ、時間と財産を浪費し、無益な人生を送って死んでいく。

死んでから気付いても遅い。

この人生を無駄にしないために、本当に大切なもの、失ってはならないものと、失ってもよいガラクタを区別し、ガラクタを捨てて、スリムな生活を送ろうではないか。

 

 

2004年8月1日

 

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