神不在の可能性思考は占いと同じ罪である
20年前ロサンジェルスのロバート・シューラーの教会に行ったときのこと。
いたるところに「可能性思考」の言葉が書いてある。
「信じれば可能になる」など。
彼の考えが間違っていると思うのは、「キリストを欠いている」から。
「信じれば可能になる」だけでは、世俗の自己啓発セミナーとなんら変わりない。
「神の御心ならば」や「キリストにあって」という文句を必ず付け加えなければならない。
つまり、「信じれば可能になる」ではだめで、「キリストにあって信じれば可能になる」でなければ。
キリスト中心ではない可能性思考は、「人間自律」を促すもので、サタンの教えである。
エデンの園でサタンはエバに「神がいなくても、やればできますよ!」とささやいた。
神不在の可能性思考は、占いと同じ罪である。占いの罪の本質とは「神に基づかない力や知識の獲得」である。
ロバート・シューラーもいずれ化けの皮が剥がされるだろう。
2008年6月15日
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