律法はいのちを与えないか?14


<LUKEさん>

>レビ系律法=予型的律法 対 メルキゼデク系律法=本体的律法

には大体同意です。なるほど、前者は影・型、後者は実体と言うわけですね。そこでその実体が問題ですね。前者は基準を示しても、それを行なわせる力はなかった(いのちを与えないから)。が、後者は実体(=キリストのいのち)を与えるので、行なわせる力も持っている、と私は解しているわけです。これはすでに何度も申し上げたとおりです。

つまりキリスト族に属する人々とはキリストのいのちを得ることによって、影・型であるモーセ律法の基準をも行ない得る。いのちは信仰によって働く恵みにより与えられ、そのいのちは律法を成就します。つまり「信仰は律法を確立する」わけですね。

<tomi>

これは、新約の民だけではなく、旧約の民にも言えることですね。
影・型の律法のもとにいる時も、民は霊を受けていた。
民がまるで霊的なパワーを受けていなかったというのは、間違いです。
もしそうだとしたら、非常に多くの聖句と矛盾することになります。

たとえば、すでに述べたように、聖書を理解させることは、聖霊の主要な働きの一つですが、それが旧約の民には与えられていたと、聖書は語っています。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(2テモテ3・16)

ここにおいて「聖書」とは「旧約聖書」です。

旧約聖書は、神の霊によって記された。だから、旧約聖書は「神の御霊に属すること」である。

さて、「神の御霊に属すること」は、生まれながらの人間には理解できない。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(1コリント2・14)

旧約聖書を読み、神を崇め、救いの賛美をしていた旧約時代の人々は、それを行ったときに、「霊によって」そうしたのです。

なぜならば、「御霊のことは御霊によってわきまえるものだから」。

だから、影・型であった律法は、それを行なわせる力はなかったというわけではない。

御霊が働いたからです。

旧約の民は、御霊によって聖書を理解し、御霊の導きを受けていた。だから、バプテスマのヨハネの両親ザカリヤとエリサベツは、「律法を落ち度なく守っていた」(ルカ1・6)と言われている。

旧約の民にも律法を守る力があった!

では、パウロが「いのちを与えない」と言ったのは、どういう意味でしょう。

「とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。」(ガラテヤ3・21)

ここで言う「律法はいのちを与えない」というのは、「律法を守ることによっては人間は生きることができない」という意味です。

つまり、すでに述べたように、剥き出しの律法は、人を殺すことしかできないのです。

しかし、割礼派の人々は、「いや、剥き出しの律法をつきつけられても私は死なない。むしろ、それによって生きることができる」と考えて、「律法を守ることによって救われる」と人々に説いていた。


影・型の律法と、実体の律法の差は、「それを行わせるいのちの有無の差」ではありません。

旧約の人々も新約の人々も「いのちを与える力」を受けていた。

たしかに、聖霊の働きの程度には差はあります。

旧約の場合に、霊によって預言できる人は限られていましたが、新約において、万人が霊の預言者になりました。

「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒2・17)

 

 

2005年10月14日

 

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