体験は真理かどうかの試金石ではない
<O様>
先程メールをうっていて、はたと気づいた事がありました。
“My presence shall be with thee.”(出エジプト記33:14)
「私には神様の御臨在は全く感じられず」「圧倒的な主の臨在の中で、御業が起こっています。」「主の御臨在」、良く聞くことばですが、本当の意味をわかって使っているのでしょうか(自問自答含む)。特別な教役者が何かしないと主は現れて下さらないのでしょうか。どなたか宜しく御教示下さい。
<tomi>
たしかに、御臨在は重要です。
しかし、これはあくまでも「体験」であって、主観の域を出ません。
体験は個人の信仰を強化しますが、他の人々に「こういう体験をしたから確かなのだ」と説明できません。
いくら奇蹟が目の前で起こっても、それが聖書的であるかどうか、ということが問題です。
もし体験にこだわることが正しい態度であるならば、サタンは体験を通じて異端の教えを入れてきます。
体験主義に対する警告をイエスは述べています。
「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 」(マタイ7・21-22)
「悪霊を追い出し」「奇蹟をたくさん行った」かどうかは、その人やミニストリが正しいことの証拠にはなりません。
体験に固執させるというのは、サタンの常套手段です。
絶対不変のものは、御言葉だけであって、御言葉から発して御言葉に帰る運動でない限り、いかにそれが神々しい体験を提供していたとしても、信頼に足るものとは言えません。
2004年3月17日
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