ディスペンセーション主義の本質はサタン教である
昨日、ディスペンセーショナリズムのある家庭に招かれて伝道した。
案の定、「サタンが支配しているこの世界を変えることはできない」と相手は言い張った。
私は「地を従えよ」という命令は廃棄されていないこと、クリスチャンはこの世界の「王」であり、地上を統治するために召されていること、などなど聖書から説明したがついに理解してもらえなかった。
ディスペンセーショナリズムは、聖書の無数に存在する個所を説明できない。
それは、ただ自分が作り上げた体系の中で、自分の選んだ聖句を根拠に自己満足的に「我々は聖書的だ」と考えているに過ぎない。
もし聖書的だというならば、私が示す聖書個所を矛盾なく説明できなければならない。
ディスペンセーショナリズムは、サタンが「クリスチャンをゲットーに閉じ込めるために」送り込んだ偽の教えである。
ディスペンセーショナリズムを信じることによって、クリスチャンはこの世界を悪魔に明け渡す。
「この世界に手を触れるな」と彼らは言う。「それはクリスチャンの仕事ではなく、キリストの仕事だ」と。
この世界を変えるということは、キリストの仕事であり、それは、クリスチャンを通じて進む。
すると彼らは「クリスチャンは無力だ。今の教会の現状を見なさい。牧師はサラリーマンのようであり、力がない」と言う。
「今はサタンが働くことを神が許しておられる時期なのだ。聖霊の働く時期になれば、驚くべき数のクリスチャンが現れて、世界は変革される。」
「そんなのは現実を知らない理想主義だ。」
「現実を見て判断するのは聖書的ではない。我々は聖書に記されていることを信じて、未来に期待すべきではないか。」
こんな会話が延々と続いた。
実際、怖さを感じているのは、現状を根拠にサタンに手向かうことはできないと考えると、実質的にクリスチャンはサタニストになるということだ。
この歴史の中において、キリストは王ではない、サタンが王だ、という思想がどうしてサタン崇拝に陥らなくてすむだろうか。
私は、この家族の未来が気がかりだ。
いつものことだが、私と議論すると、その人の信仰の内容が明確化される。
それまでキリスト教であると思っていたものが、私と議論を戦わせるにつれて、実質的にはサタン教であるということが明らかになってくる。
意固地になって、自説を主張し続けることによって、ますます「サタンが王であり逆らえない」という敗北主義を強く主張することになる。
だから、私と議論した人々は、しまいにはとんでもないことをやり始める。
数々の誹謗中傷や陰謀を体験してきた。
私が雑誌などの公の場に現れると、雑誌社などに電話を入れて妨害活動する。
およそクリスチャン、しかも、牧師にあるまじき行動を何度もされてきた。
「この地上の王はサタンだ」と主張する人々は、もはや聖霊によるのではなく、サタンの霊によって動かされているから、何を言っても無駄である。
できるだけ早く決別すべきである。
2007年5月12日
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