今TVでいじめにあった過去を持つ女性がでていた。
学校でいじめにあって不登校になると、何か敗北者に感じる風潮があるが、それまったくの間違い。
学校に適応できるかできないかは、勝者か敗北者を決める基準ではない。
学校という制度は、絶対ではない。
絶対なのは、御言葉だけ。
人間の作った制度は相対であり、それゆえ、絶対に適用できなければならないというわけではまったくない。
人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(箴言29・25)
人を恐れると、必ず罠が待っている。
たとえば、牧師が権力者や金持ちを優遇したり、彼らの耳障りのよいことを言うようになれば、どういうことが起きるか。
その相手にサタンが入る。
そして、いろんな操作を始める。
我々は人を恐れるときに、サタンに対して隙を作ることになる。サタンは、信仰のほころびをいつも探しているから、目ざとく見つけて、その相手に憑依し、こちらを攻撃するようになる。
過剰な要求をさせたり、振り回したりする。
人を恐れなければ、我々は守られるのだ。
だから、いじめにもあわない。
いじめられる人は、神を信じず、人に救ってもらおうとするから、かえってサタンの火に油を注いでいるのだ。
いじめは、霊的な現象だ。背後に霊が働いている。
サディズムの霊が。
こちらが神以外のものを信じると、そのサディズムの霊は勢いを増す。
相対者を恐れてはならない。それだけがいじめを回避する方法だ。
鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。(イザヤ2・22)