クリスチャンは死刑廃止論を唱えてはならない
1.
聖書の刑罰観の中心は「目には目を」「歯には歯を」の原理である。
これは復讐を教えているのではなく、被害者は加害者に対して自分が蒙った損失と同じ程度の補償を要求できるという原則である。
5000円分の被害を与えた人間に5000円償えと言えるということだ。100万円分の被害を与えた人間に100万円償えと言えるということだ。
これによって被害者と加害者の間にイーブンの関係が生まれ、社会の秩序は回復する。
ただし、聖書において、100万円分の被害を受けた被害者は加害者に対してそれ以下、たとえば、10万円しか請求しないこともできるとされている。
相手にどのような補償を求めるかは、被害者が選択できる。
被害者の気持ちしだいで、刑罰が決定される。
しかし、このような減刑は、義務ではない。それを法的義務としてしまうと、「目には目を」の原理が崩れて、社会に原状回復のチャンスは奪われ、不条理感が募っていく。
死刑反対運動は、「目には目を」の原理に対する違反である。
これは、社会に傷を残すことになる。
庭に穴を掘る人間がいたら、彼に同じ量の土でそれを埋めることを求められなければ、自分がそれをしなければならなくなるのと同じだ。
被害は結局、誰かが補償する以外にはない。あいた穴を埋めることができるのは、同量の土だけだ。
だから、殺人に対しては、死刑を適用しなければならない。
2.
さらに、「目には目を」の原則を崩すならば、キリストの十字架は無駄花になる。
キリストがなぜ十字架につかねばならなかったといえば、死に値する罪があるからだ。
我々がもし死に値する罪を犯していなければ、我々は死ぬ必要はないし、それゆえ、キリストが身代わりに死ぬ必要もなくなる。
死罪の存在は、キリストの十字架の土台である。
死罪があるから、キリストの十字架があった。
だから、死刑廃止制度は、キリストの十字架を不要とする間違った理念から生まれている。
クリスチャンは死刑廃止論を唱えてはならない。
2009年8月11日
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