なぜ市民運動は例外なく失敗するのか?
今年、小田実が亡くなった。
日本の市民運動は失敗してきた。60-80年代の学生運動、市民運動、草の根政治運動などは日本の奴隷制度的政治体質を変化させられなかった。なぜだろうか。
それは、いわゆる運動を担う小田のようなリベラルな人々が、共産主義を信じてきたことにある。
政府の暴挙に対して対抗するこれらの人々が、結局のところ、圧制を行う立場にある人々と同じ思想を持っているからだ。
彼らも、最終的に頼るのは国であり、「国になんとかしてもらおう」という姿勢は共通している。
このような国家への依存は、国家依存を教える公的教育の産物である。どんなに思想的に独立して考えているように見えようが、公的教育の影響にある限り、それ以外の発想は生まれるはずがない。だから、根本的に国の体制を変えることができないのだ。
リベラルな人々が帰るのは、せいぜいフランス革命である。
フランス革命とロシア革命は、無神論―反キリスト―革命のラインで、現代の市民運動と共通している。
このような運動がどんなに盛んになっても、本当に市民を解放する運動など起きるはずがない。フランス革命とロシア革命の末にどのような体制が生まれたかを見ればすぐに分かることだ。
血で血を洗う粛清の嵐だ。最後は、ナポレオンとスターリンという独裁者を生み出し、以前よりもひどい専制国家が誕生した。
国を神として頼る運動では、結局のところ、破壊の後に独裁者を登場させる以外にはない。
本質は、国家主義とは偽メシア主義であり、反キリストだというところにある。
キリストを拒否し、それ以外のものに頼り、それを拝む行為は偶像礼拝であり、それゆえ、悪魔的行為である。
だから、これらの市民運動は、悪魔による徹底的な破壊に終わる。
浅間山荘事件を見なさい。日本の学生運動は結局、スターリン的粛清に終わった。
キリストを捨てて、人間の力に依存し、ひいては国家に救いを求めることは、自分を殺し、自分の国を粛清にさらすことに等しい。
市民運動家は、この愚かさに早く気づいて、本当の神を拝み、国に頼らない運動を作り出すべきだ。
2007年12月15日
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