自分のいのちを愛する者はそれを失う
「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。」(ルカ16・15)
晩年に信仰を捨てる人が陥るのは、名誉欲である。
ビリー・グラハムの銅像が最近、同師の故郷テネシー州ナッシュビルに設置された。
正しい行動の結果名誉を与えられることは問題ないだろう。
しかし、まず名誉を求めるならば、必ずサタンに足をすくわれる。
正しい行動の結果人間関係がよくなることは問題ない。
しかし、まず人間関係を求めるならば、必ずサタンに足をすくわれる。
名誉欲とか人気欲と、信仰とは調和できない。
どちらを取るか、だ。二者択一だ。
あっちを立てればこちらが立たず。
キリスト教界で大物と呼ばれて何になる?
世間で評判がよくなって何になる?
人気者になって何になる?
「だってご飯を食べていかなければならないでしょう。」
「人はパンのみにて生きるにあらず」だ。
パンの問題によってぐらつくならまだ弱い。
荒野の誘惑は、まずパンからはじまった。
経済的問題。ここを崩せば、だいたいの人間は落ちる、とサタンはふんでいる。
共産主義は、この誘惑におちた人が作り出した教えである。
「アーメン、ソーメン言っても、飯が食えなければ何にもならないでしょう。」
「その石をパンに変えなさい」という誘惑はいつも我々のそばにある。
クリスチャンとして最後まで信仰を持ちつづけ、晩年になって棄教しないためには、若いころから、妥協しない訓練を積む必要がある。
世評とか、周りの目とか、人間関係とか、名誉とか、そういったものを捨てて、まず神に頼る訓練を積むべきだ。
「人から何を言われてもいい。神が必ずドアを開いてくださる。」と本当に思えるまで訓練を積まなければ、人を指導なんかできない。
だから、パウロも最初の2年間荒野で修行をした。
既存の体制に溶け込むことを考えていたら、神の国のために何もできない。
生き残りを考えていたら、逆に生き残れなくなる。神の世界というのは、逆説的だ。
「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12・25)
2008年3月9日
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