生活指針としての律法の役割を見失うべきではない
<AKさん>
> まず聖書は無誤無謬であるという共通認識の元から
>
> 旧約聖書の中で
>
>
> 人を打って死なせた者は、必ず殺されなければな
> らない。(出エジプト記 21・12)
>
> しかし、人がほしいままに隣人を襲い、策略をめ
> ぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のとこ
> ろからでも連れ出して殺さなければならない。
> (出エジプト記 21・14)
>
> と御言葉が律法を語り、固く守り行えと聖書は教えています。
> しかし新約聖書では
>
>
> わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだ
> と思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成
> 就するために来たのです。
> まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせ
> ない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれるこ
> とはありません。全部が成就されます。
> だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、こ
> れを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、
> 天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、そ
> れを守り、また守るように教える者は、天の御国で、
> 偉大な者と呼ばれます。(マタイの福音書 5・17-19)
>
>
> と語りながらも
>
>
> キリストが律法を終わらせたので、信じる人は
> みな義と認められるのです。(ローマ人への手紙 10・4)
>
>
> とも語っています。この時点では
> 御言葉が矛盾し、聖書は無誤無謬であるという大前提を
> 崩してしまいます。
>
> もちろんtomiさんと私が前提としているように
> 聖書に無誤無謬は存在しませんから、この御言葉はこのままで
> 正しいととるべきです。
> キリストによる律法の終焉を御言葉として残したパウロ自身も
>
>
> それでは、私たちは信仰によって律法を無効にす
> ることになるのでしょうか。絶対にそんなことはあり
> ません。かえって、律法を確立することになるのです。
> (ローマ人への手紙 3・31)
>
>
> と同じ”ローマ人への手紙”で語っています。
>
> ではいったい何故なのでしょう。
> そのあかしをしている箇所は主に
> 当時としては最高峰の教育を受け
> また、主に召される前は使徒を迫害していた
> パリサイ人のメシアニック・ジューであるパウロがあかししている
> ”ローマ人への手紙”
> ”コリント人への手紙T・U”
> ”ガラテア人への手紙”
> ではないでしょうか。
> 長すぎるので私がここは重要なポイントだと思う箇所を
> 拾って書こうと思います。
>
>
> まず、主イエス・キリストが十字架に架かり、人間の罪を
> 全て贖われてから天に還られた後の時代。
> 今日、私たちが生きる”恵みの時代”にとって
> 旧約聖書に語られる律法が何だったのか、という事を分かりやすく
> あかししている箇所です。
>
>
> ガラテア人への手紙 2・12-5・26の中から
>
>
> 信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の
> 下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、や
> がて示される信仰が得られるためでした。
> こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私
> たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義
> と認められるためなのです。
> しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育
> 係の下にはいません。
> あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰
> によって、神の子供です。(ガラテア人への手紙 3・23-26)
>
>
> ここでは律法とは何だったのか、ときあかしされています。
> また信仰によって養育係の下に私たちが
> いないという事も語られています。
>
> すなわち、旧約聖書における律法の主イエス・キリストによる終わりです。
>
> 疑問に思われたのならこの前後を読まれれば、もっと
> 詳しくあかししてあります。私の説明より分かりやすいと思います。
>
>
> つぎに、主イエス・キリストによる新約聖書での愛から出る
> 信仰による律法の成就についてのあかしをしている箇所です。
>
>
> キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けな
> いは大事な事ではなく、愛によって働く信仰だけが
> 大事なのです。(ガラテア人への手紙 5・6)
>
>
> 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるため
> に召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会と
> しないで、愛をもって互いに使えなさい。
> 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように
> 愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。
> (ガラテア人への手紙 5・13-14)
>
>
> これで、御言葉に矛盾は無くなりました。
> 主イエス・キリストは十字架によって
> 旧約の律法を終わらせ、新約の律法を成就されたのです。
>
> なぜなら、旧約の律法がなければ私たちは何が罪であるのか
> 知ることも出来ず。救いの恵みを受けることはかなわなかったでしょう。
> ですから、旧約の律法によって私たちは救いを得たという事もできます。
>
>
> わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだ
> と思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成
> 就するために来たのです。
> まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせ
> ない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれるこ
> とはありません。全部が成就されます。
> だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、こ
> れを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、
> 天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、そ
> れを守り、また守るように教える者は、天の御国で、
> 偉大な者と呼ばれます。(マタイの福音書 5・17-19)
>
>
> 御言葉の通りでしたね。やはり、聖書は無誤無謬なのです。
>
> ですから旧約にある「殺人者を処刑しなさい」と
> いう律法はすでに愛による信仰によって成就されました。
> または、その罪を犯した人が悔い改め、主イエス・キリストを
> 愛によって信仰するなら律法は成就されるのです。
>
>
> 長くなってしまいましたがいかがだったでしょうか。
> 私なりに今の時点でできる律法の解釈を書きました。
<tomi>
次に述べることをよく吟味してください。
軽々に反論されないように。というのは、この問題は、誤解すると、混乱が混乱を生みますから。
(1)
パウロは、「律法はキリストで終わった」とある個所で述べると同時に、「律法は信仰によって確立された」と述べています。
もし、「律法はキリストで終わった」ということを「キリストが成就したのでもはや現代に通用しない」というふうに解釈すると、「律法は信仰によって確立された」という個所と完全に矛盾します。
なぜならば、パウロが聖書の中において律法をどのように扱っているかといえば、単に「救いに導くための導入係」としてだけではなく、「新約時代に住むクリスチャンにとっての生活指針」としても扱っているからです。
繰り返します。「律法は信仰によって確立された」のは、単に救いの導入係りとしての役割となったということだけではなく、「律法は生活の原理として確立された」という意味でもあるのです。以下の個所をごらんください。
「教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。」(1コリント14・34)
「いったい自分の費用で兵士になる者がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない者がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない者がいるでしょうか。
私がこんなことを言うのは、人間の考えによって言っているのでしょうか。律法も同じことを言っているではありませんか。モーセの律法には、『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。」(1コリント9・7-10)
「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。 」(ヤコブ4・11)
ごらんのように、新約聖書は、「律法をもはや守る必要はない」とは言っていません。むしろ、「律法の悪口を言い、律法をさばいてはならない」と述べています。
もう一つ、論拠を挙げましょう。
「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」(マタイ5・19)
「律法を破る・・・者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。」とちゃんとあります。
これは、律法が規範として有効であることを決定的に示している個所です。
ですから次のあなたのご意見は否定されます。
> これで、御言葉に矛盾は無くなりました。
> 主イエス・キリストは十字架によって
> 旧約の律法を終わらせ、新約の律法を成就されたのです。
>
> なぜなら、旧約の律法がなければ私たちは何が罪であるのか
> 知ることも出来ず。救いの恵みを受けることはかなわなかったでしょう。
> ですから、旧約の律法によって私たちは救いを得たという事もできます。
「旧約の律法を終わらせた」ということが本当であるならば、パウロやヤコブは律法を規範として絶対に紹介しないはずです。
「律法も言うように・・・しなさい」とは絶対に言わないはずです。
今は恵みの時代になり、律法の時代ではないのだから、律法を守る必要はなくなったという解釈の立場は、ディスペンセーショナリズムのそれであり、誤謬です。
いいですか、よくお聞きください。
私たちが律法から解放されたとパウロが述べている個所は、「生活指針としての律法をも守る必要はなくなった」ということではなく、「律法ののろい、刑罰から解放された」ということなのです。
生活指針としての律法は現代においても有効です。
この律法の役割を神学用語で「律法の第3効用」と呼びます。
(2)
たしかに、キリストは律法を成就しました。しかし、「成就した」=「律法は守らなくてもよくなった」とはなりません。
たとえば、ある社員が就労規則をすべて完全に守ったとしても、その後その就労規則が守らなくてもいいものに変わるわけではないのと同じです。
キリストが律法を成就したとしても、律法は神の御心の啓示であるわけですから、そのまま我々が従うべき規則として残りつづけます。
(3)
> 信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の
> 下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、や
> がて示される信仰が得られるためでした。
> こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私
> たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義
> と認められるためなのです。
> しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育
> 係の下にはいません。
> あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰
> によって、神の子供です。(ガラテア人への手紙 3・23-26)
>
>
> ここでは律法とは何だったのか、ときあかしされています。
> また信仰によって養育係の下に私たちが
> いないという事も語られています。
>
> すなわち、旧約聖書における律法の主イエス・キリストによる終わりです。
>
> 疑問に思われたのならこの前後を読まれれば、もっと
> 詳しくあかししてあります。私の説明より分かりやすいと思います。
ガラテヤのこの個所を、
「かつては、人間は律法によって縛られていたが、今は律法から解放されて自由になった。もはや律法を守る必要はない」という意味に解釈してはなりません。
なぜならば、繰り返しますが、パウロは、生活指針としての律法を守るように奨励しているからです。
もし「生活指針としての律法」すらも否定されているならば、先に挙げた聖書個所及び聖書の中の無数の個所と矛盾し、聖書は「無律法主義」を教えているということになってしまいます。
我々にとって旧約聖書は、新約聖書が登場するまでの「古文書」としての意味しかなくなります。
しかし、パウロや他の新約聖書記者は、旧約聖書をそのような古文書としてではなく、新約時代にも通用する「義の教え」として紹介しています。
では、ガラテヤでは何が否定されているのでしょうか。
それは、「割礼によって救われる」とする「割礼派」の人々の律法観なのです。
この個所においてパウロが否定しているのは、律法によって救済されるとする割礼派の人々の律法観です。
パウロは、これに対して「信仰によって義と認められる」と説きました。
パウロは、「律法によって救いを得ようとするならば、すべての律法を守らなければならなくなるぞ」と警告しました。
「律法によって救われようとするのは無駄なことだ」と。
しかし、パウロは「生活指針、神の御心を啓示するもの、義の生活の道としての律法」までは否定していません。
「あなたがたは律法の下にはもはやいない」と彼が述べるのは、「生活指針としての律法の下にはいない」ということではなくて、「あなたがたを地獄に落とす糾弾者としての律法の下にはもはやいない」ということなのです。
「キリストが律法を成就し、我々の代わりに義を全うし、刑罰も受けてくださったので、我々が「救われるために」律法を守る必要はもはやなくなった。信仰によって我々はキリストにあって神の義の規準を全うした。だから、糾弾し、地獄に落とす律法の下にはもはやいない」ということを言っているのです。
(まとめ)
ディスペンセーショナリズムのように、旧約聖書と新約聖書を、「律法の時代」と「恵みの時代」とに分けることはできません。
なぜならば、モーセの時代、旧約聖書の時代も、「恵みの時代」だったからです。
旧約の民は、「宝の民」であり、「神の愛された民」、「恵みの契約の民」だったからです。
律法は、「恵みの法」であって、「断罪の法」、「憎しみの法」ではありません。
律法は、義と認められるためにそれを守ろうとする人々にとっては、断罪の法になります。
なぜならば、人間は完全に正しい生活をすることは不可能だからです。
それゆえ、律法とは、「それを自力で救われようとする人のための法」ではなく、「神の規準を知り、贖い主を求め、贖い主であるキリストを信じることによって救いを得ようとする人のための法」だったのです。
神はイスラエルの人々に、このような法として律法をお与えになりました。
しかし、ガラテヤの「割礼派」の人々のように、律法を誤解して、自力で救いを達成しようとする人々がいました。
パリサイ人などがそうです。
パウロは、このような自力救済の教えを否定するためにガラテヤの手紙を書きました。なぜならば、ガラテヤの教会の人々が彼らによってだまされて、本当の救いの道から外れそうになっていたからです。
パウロが否定しようとしたのは、「自力救済の法として誤解されていた律法観」であって、「本来の律法観」ではありません。
本来の律法とは、次の3つの意味がありました。
(1)人に義の基準を示す。どんなに神の基準は高く、人間はどんなに罪深いか、ということを自覚させるため。
(2)人にキリストを求めさせる。高い義の基準を知った人々は、無力感を覚える。そして、贖い主を求めるようになる。
(3)人に神の御心を教え、義の民としてふさわしい生活に導くため。
ガラテヤの手紙においてパウロは1を「養育係」と名づけて説明しています。
そして、キリストにあって、もはや1の律法の役割は信仰者に適用されないと言います。
ガラテヤの手紙においてパウロは、3の役割については触れていません。
これについては、ローマの手紙において触れられています。
パウロは、律法を聖なるもの、正しいもの、良いものと述べています。
「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ローマ7・12)
どうして、律法は廃棄されてよいでしょうか。聖であり、正しく、良い律法をどうして我々は守らなくてよいでしょうか。
また、パウロは、クリスチャンは律法の要求を満たすべきである、と述べています。
「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8・4)
ここから律法は「クリスチャンが守り、その要求を全うすべきもの」として扱われていることが分かります。
聖書は、少数の個所から結論を出すのではなく、矛盾する場合、その矛盾を解決するような形で解釈する必要があります。
律法否定論、無律法主義は、正統的なキリスト教ではなく、それゆえ、ディスペンセーショナリズムの律法観は異端であり、絶対に採用してはならないものです。
2006年4月30日
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