無償の愛は聖書的ではない2


(1)
「じゃあ、親子の愛は、報いを期待していいのですか。」という疑問があるかもしれない。

親が子に対して直接的な報いを期待して育てるならば、子供はゆがむ。

子どもは親の道具ではないから。

子供は、神が親に与えられた存在である。

親は子どもを神から預けられた存在として育てる責任がある。

それと同時に、親は、神に対して子どもを御心のままに育てた場合に、報酬を請求する権利がある。

人間は、契約的存在である。

だから、契約の「法」と「賞罰」から自由になれる瞬間や場合など一切存在しない。

あらゆる行為に対して神の倫理的評価が下り、その評価によって、報いを得たり、裁かれたりする。

もし、報いも裁きもないとするならば、それは、「法は存在しない」と言うようなものだ。

我々は、子育てに対して神に対して契約的責任を負っている。

だから、我々は罰を受ける場合もあるし、報いを受ける場合もある。

報酬を期待しないのが、クリスチャンだというのは、非聖書的な俗説である。

(2)
契約には、縦の要素と横の要素がある。

縦の要素とは、神との関係である。

我々は、神との関係において、刑罰は受けない。

キリストを身代わりの犠牲として捧げるからだ。

横の要素とは、対人間関係である。

人間関係において犯した罪は、その相手に対して補償をしなければならない。

損害を与えたならば、原状回復するのが聖書の規定だ。

「目には目を」だ。

人間関係において、相手にサービスをしたら、そのサービスに対して報酬を期待できる。

たとえば、時給1000円で働いたら、その分だけ報酬を受け取ることができる。

あらゆる人間関係は、ギブ・アンド・テイクである。

相手が要求しない場合には、報酬を支払う責任はない。

しかし、要求している場合に、それを払わなければ、その人にとって負債となる。

負債は返すまで責任として残る。

(3)
よく、「殺人犯がクリスチャンになったら処刑は適用されないのか」と質問する人がいる。

クリスチャンになることは、神との間に許しの関係を成立させるが、人間関係にとっては無解決である。

人間に対して行ったことは、それ相応の責任を取らねばならない。

だから、殺人を犯した人間は、処刑されるべきだ。

(4)
無償という概念は、非契約的世界を作ろうとすることを意味する。

契約とは責任と報酬の関係である。

だから、無償の愛を説くヒューマニストたちは、聖書的対神対人間関係を破壊しているのである。

 

 

2010年5月21日

 

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