オーバン・アヴェニュー神学は異端です


<Q>
オーバンアベニュー神学は異端だと言っていました。私はどこに異端と正統の線を引いたらよいのかよくわかりませんが、カルトであることは間違いなさそうです。確かに、攻撃する人たちは異口同音に異端呼ばわりしています。

<A>
オーバン・アヴェニュー神学は、アダム契約は、業の契約ではないといいます。
業の契約でなかったとしたら、恵みの契約ですが、恵みの契約の中にいる人に神は「それを行うときに、あなたは死ぬ」といわれたということは、恵みの契約にいる我々も罪を犯したら永遠の死を経験することになる。
そうしたら、行為義認になる。実際に、オーバン・アヴェニュー神学では、信仰義認から離れて行為義認に向かう傾向があります。
もう一つは、もしアダム契約が恵みの契約であるとすれば、キリストの受肉に意味がなくなる。
キリストが人間にならねばならなかったのは、アダムの使命を新しい人類の初穂として成就するためでした。
つまり、神の法を完全に守ることによって、人類と被造世界全体を栄光化することがアダムの使命だったわけですが、アダムは失敗した。そのために、神は新しい人類を起こす必要があった。
キリストは、新しいアダムとして、神の法を完全に守って、罪の贖いを成し遂げ、すべてを成就された。
それによって、神はアダムに約束された世界の栄光化を与えられた。
世界は、キリストにおいて新天新地となり、栄光の世界が出現した。
これは、法的な新天新地であって、実際的な新天新地ではないが、しかし、法的にはすでに世界はエデンの園になっている。
クリスチャンは、キリストの体として、法的な新天新地を実際的な新天新地に変える働きをしなければならない。
それが大宣教命令です。
歴史を通じて徐々に世界は実際的にも栄光化されていく。
しかし、もしアダム契約が業の契約ではなく、恵みの契約であれば、アダムは失敗したことにならない。
なぜならば恵みの契約の主はアダムではなく、キリストだから。
アダムには契約の主としての責任が最初からなかったということになる。責任もなければ失敗もない。
アダムが失敗していないのであるから、キリストが受肉して代わりに被造物の完成をする必要もない。
受肉には罪の贖いという側面と、神の法の成就という二つの側面があるという正統的な教理の一面が抜け落ちる。
明らかに異端です。

 

 

2009年12月11日

 

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