部分的に認められた主権は主権ではない
キリスト教の中心は、キリストであり、キリスト教のすべては、キリストの主権を認めるか認めないかにかかっている。
だから、キリストを主と認めないならば、それはクリスチャンではなく、滅びの人である。
どのような領域についてであれ、キリストの主権を認めない人は、滅びの人である。
科学や司法については、人間は自立的に思考してよい、という人は、滅びの人であり、死後地獄に行く。
進化論を信じて、どんなに説得され、聖書に明らかに示されていようと、「俺は信じたいものを信じる」と頑固に言い張る人に救いはまったくない。
イエスの主権を認めるか認めないかは、「ある程度」というようなものではなく、オール・オア・ナッシングである。
イエスを主とするか、それとも、自分を主とするか。
イエスを主としない人が救われる可能性はゼロである。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10・9)
「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」(1ヨハネ4・3)
イエスを主と告白できるかどうか。「ある程度信じます」ではだめだ。
ある程度認められた主権は、主権ではない。
イエスを全的に認めるか。これができるか否かで我々の死後の運命が分かる。
2008年3月10日
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