「外国人お断り」の標識は不正か?2


私はある特定の民族に対してある評価をしている。

それを耳にしたら、私のことを「人種差別主義者」とか「民族差別主義者」と言うかもしれない。

しかし、これは、私の商売上の体験から来ているので、変えるつもりはない。

人にそれぞれ個性や倫理レベルが異なるように、民族にも特有の個性や倫理レベルがある。

最近、教会の牧師ですら、ヒューマニズムに汚染され、「文化には優劣の差はない」などと言う人々がいる。

実際に商売や貿易をやったことのある人ならば、すぐに、民族や国によって「商売ができるレベル」に差があることに気づくだろう。

このような会話は商社マンの間では普通に行われている。

商売においては「誠実さ」はきわめて重要である。

時間を守る、納期を守る、ビジネスをやる人間としての規範意識があるか、・・・、こういった様々な要素から、商売人は、商売相手をするどく観察する。

そして、継続して取引ができる相手かどうか判断する。

それは、個人的だけではなく、民族的にもそうである。

「○○人はダメだよ。裏切るから。」とか「××人は、義理堅いよ。」といった会話がよく交わされる。

私は、アメリカなどにおける人種差別、民族差別には、単に「生物学的理由」だけではなく、「機能的理由」も存在するのではないかと考えている。

個人として私が、ある人々に対して不義理をかまし、彼らに不利益をこうむらせたことがあり、それを放置し、弁償も反省もしなかったとしたら、私は確実に信頼を失い、それ以降、その人々から相手にされなくなるだろう。

こうなったのは自分の不徳にあるのだから、真摯に反省する以外にはないのだ。

それと同じように、ある民族、人種の人々に、社会の中である一定の評価が下されているならば、それには理由があるのだと思う。

教科書などでは、公民権運動、キング牧師が評価されているが、我々はそれを鵜呑みにできるだろうか。

もちろん、白人が黒人に対して行った歴史的な犯罪を認めよといっているのではない。

奴隷売買によって連れてきた張本人は白人なのだから。

私が問題にしているのは、奴隷解放後である。

黒人にある社会的に不利な評価がついて回るのは、なぜだろう?

それは、単に皮膚の色の問題なのだろうか。

私は人種差別も、民族差別もするつもりはない。

しかし、ある民族や人種に対して特定の評価はしている。

なぜならば、まともに彼らと付き合うために必要だから。

ある民族の人のもとで働いて給料を出してもらえなかった経験や、ただ働きをさせられた経験、その他普通の日本人から受けたことのないような理不尽な体験から私はある一定の評価をその民族に下すようになった。

そして、彼らとのつきあいをするには、彼らに合わせた特別な自己防衛をする必要があると考えている。

私は不正なことをしているだろうか。

 

 

2006年10月12日

 

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