本当の認識論の基礎
ヴァン・ティルは、人間の認識論の基礎を、神の自己認識に置いた。
創造の前に神だけが存在した。神は無から世界を創造されたから。
神しか存在しない世界において、認識とは神の自己認識である。
神は、ご自身について完全な知識を持っておられる。神にとって、自己に関して謎の部分や影の部分、発展途中にあって知られていない部分は存在しない。
認識の基礎は、神のご自身に関する徹底的な知識に基づいており、これは、被造物にとって不動の礎である。
人間の知識は、不明な部分がある。自分についてであっても、知らない部分がある。例えば、自分が何に向いているのか、どの仕事が適切なのか、働いてみない限り分からない。
ある人気表紙作者が、「プロとは継続して仕事の依頼が来る人間だ」と言った。
適不適の試金石の一つは、社会がそれを求めているかどうかである。
我々は、認識において不完全なので、自分の可能性についてすら知らない。
しかし、神はご自身について完全な知識を持っておられ、謎な部分は一つもない。
聖書的キリスト教認識論の基礎は、それゆえに磐石なのである。徹底しているのである。
しかし、ヒューマニズムの認識論は、自分についてですら不完全な知識しかもてない人間を基礎としているので、その土台は泥である。
経験科学を大事にしているが、所詮、科学の知識とは「暫定的」知識でしかない。新しい事実が発見され、証明されて、それまでの知識が廃れることを前提として組み立てられている。
このような泥の土台の上に家を建てるから、ヒューマニストの人生には不安と恐れがつきものなのだ。
我々には、磐石の土台、つまり、神の自己認識がある。そして、その自己認識の上に築き上げられた知識の体系がある。
聖書は、自分に関して、被造世界全体に関して完全な知識を持つ全能者の自己啓示であるから、我々が信頼すべき土台である。
迷いや恐れがあれば、聖書に頼ることだ。聖書が何を言っているのか、が最終権威である。
我々には、確固とした土台があるのでぶれなくてすむ。
我々は、信仰において未熟なので、ぶれることがあるが、様々な経験を通して、聖書に依存することを学んでいく。
2008年2月28日
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