神は契約的に人を扱われる


最近TVでセクハラで訴えられたと報道された牧師は、かつて副牧師をやっていた教会に教会成長に役立つということで講師で来た人である。

神学校の授業で、教会成長のケーススタディで訪問した教会は、一つは牧師が暴力とセクハラで訴訟のもとにある。もう一つは、心理学を導入した牧会ということで有名だったが、鳴かず飛ばずで伝道をやめて帰国してしまった。

教会成長学は、リーダーシップ論など学ぶべき点もあるが、扱いを間違うと非常に危険な学問である。

なぜだろうか。

契約の視点がないからだ。

因果律が契約的ではない。

因果律とは、「○○をすれば△△の結果になる」という○○と△△の関係である。

聖書が一貫して教えている因果律とは、倫理である。

律法に適うことをすれば成功し、逆らえば失敗するという。

申命記全体がこのテーマに貫かれている。

教会成長学は、この因果律が明確ではない。

なぜならば、この学問を創始した神学校が、新福音主義であり、それはバルトの影響を強く受けているからだ。

バルト神学は状況倫理主義者で、無律法主義である。
http://www.arsvi.com/b1900/6600fj.htm

だから、聖書法と成功の間に因果関係を見ない。

それは、単なる方法論である。

「教会が成長するには、リーダーをこのように養成して、駐車場を広くして、ぎんぎんのヘビメタのロックバンドの演奏を礼拝の前にして若者を集め、喫茶店を開き、フィットネスクラブを作り・・・」

「え〜!ヘビメタを?」と思うかもしれないが、これについてはこの学問の日本の第一人者から直接神学校の講義で聞いた。

教会成長学の影響によって、世界の教会が的外れなことをするようになった。

一番大切なこと=「教理教育」「聖書の学び」をやめて、信者集めに血道をあげた。

行事、行事で信徒を追いたて、聖書研究する人々を「暗い」と批判した。

しかし、実質的に神は行事によってではなく、契約に基づいて人々を取り扱われる。

契約違反をして祝福などされるはずがない。

実質的に今の教会は、教会成長学を通じて侵入したバルトの無律法主義によって骨抜きにされた。

 

 

2010年2月6日

 

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