人間に頼らなくなるまで訓練は続く
よく「サタンなんて別の世界のことでしょう。私たちと何が関係があるのでしょうか」という人がいる。
サタンは我々の身近にいる。そして、常に我々を狙っている。
それは、顕著な例では、犯罪だ。犯罪者は、正常な状態にない。
サタンに強く支配されている。
だから、彼らの心理は、我々の日常の感覚では理解できない。彼ら自身ですら理解できないかもしれない。
我々人間は、容器のようなものとして作られた。聖書では、「器」という言葉が使われる。
人間は、霊の容器なのだ。
そして、その中に何が入るかによって大きく異なってくる。
クリスチャンには、聖霊がいらっしゃる。
だから、我々の思考は、聖霊によって支配されている。
クリスチャン同士の会話が聖霊に導かれているなら、その会話は実りのあるものである。
しかし、クリスチャンが互いに御心に逆らうようなことを話し合うと、聖霊の導きはない。だから、後味の悪い会話になる。
聖霊の導きにある会話であれば、次々と会話の中で様々なことが示される。
気づきが起きる。自分が考えていなかった新しい思いが沸き起こる。
こういう聖霊の流れの中に入ることによって、我々は互いに徳を高めあう。
これと同じことがサタンについて言える。
神の御心にかなわない生活を続けていると、サタンが入りやすくなる。
サタンそのものが入る場合もあるが、だいたいは手下の悪霊だ。
ある教会に占いをやっている女性がいた。最後には精神を病んだ。
最初は興味本位でやっていても、それは、サタンの領域が心の中に作られているのだから、サタンはそれを拡大しようとする。
どんどんとのめりこませる。
霊はどんどん出入りを繰り返す。
そのうちに心のほとんどを占領される。
すると、自然に、何も考えずに、サタン的なことができるようになる。
心はトンネルのようなもので、一度掘った部分にはすんなり入ることができるが、掘っていない部分にはなかなか入れない。
聖霊に支配されることを求めて祈っている人は簡単に高い地点にまで上ることができる。聖霊の奥深い御心まで容易に進むことができる。
反対にサタンに支配されることになれると、次第に心は奥まで開発されているから、瞬時にして奥深い部分まで到達されてしまう。
サタンは心の奥底にまで瞬時に侵入できる。
そうやって、最後には殺人まで平気で犯せる人間に変わる。
これこそ、彼らがやりたいことだ。
つまり、心の掘削だ。
ノンクリスチャンの時に一度開けた穴は、聖霊によってふさぐ必要がある。
聖霊が充満していれば、サタンは入れない。
常に祈り、隙を作らない。不信仰な思想を入れない。
ちょっとでも隙間を作ると、ノンクリスチャン時代に掘った穴の奥底に侵入されてしまう。
だから、御言葉への絶対的な信頼、信仰によって巨大な蓋をする必要がある。
御言葉への疑いを口にするような人間に耳を貸してはならない。
「聖書は人間が書いたものでしょう。あてにならない部分がけっこうあるのですよ。」などというクリスチャンがいたら縁を切れ。
「現実は違いますよ。信仰で何でもやっていくなんて不可能ですよ」とかいうクリスチャンがいたら離れるべきだ。
「そうかな?」などと少しでも考えたら、サタンがさっと入ってくる。
心をかき乱す。
そして、どうしようもない状況に落ち込ませる。
それから、人間を頼ると同じ現象が起きる。
どんなに立派な先生や牧師であっても、所詮人間だ。
人間の生身の言葉を発するときもあるだろう。
人間に頼って聖書に頼らないと、その先生や牧師の言葉で左右されることになり、サタンはその先生を使ってあなたを誘惑するだろう。
親や兄弟、友人なども信頼できない。
サタンはこういう人々を利用する。
彼らが悪いというわけではない。
どんなにすばらしいものでも、それを利用して入ってこようとしているのだ。
彼らの心配は注意が必要だ。彼らが肉的な気持ちで(つまり、聖書と無関係に)配慮するときに、ぐらっとくる。
それが起きるのは、大切な決断のときが多い。
たとえば、よくあるのが伝道者や牧師になろうと決断する際の、友人や親の忠告だ。
「そんなことやって、生活はどうするのだ?現実的になれ。」とか。
それから、結婚式の前日。
結婚をぐらつかせようとサタンが働く。突然、前日になって、相手の親が反対するという事例を教会においてよく見聞した。
神はこのようなサタンの攻撃を利用され、その人の決心を固められることがある。
サタンが誘惑することを許されるときがある。
しかし、それによって、かえって決心が固くなるものだ。
我々は油断すると、やられるから注意すべきだ。
私は、長い間、自分の力や能力を信じてきた。
しかし、会社に入って自分よりも能力の高い人、それまで自信を持っていた部分において抜群に優れた人々を見せ付けられて、土台が破壊された。
頼るものがなくなった。
しかし、ここからが本当の信仰生活の始まりだった。
何にも依存しない。自分の能力すらもあてにしない。
こういう訓練を積むことができれば、すばらしい器になれるだろう。
我々はみな、完全な信仰に至る途上にある。
人間や力を頼らないで、御言葉だけに頼れるまで訓練は続くだろう。
2009年11月2日
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