聖書契約的思考法を回復しよう
「tomiさん、あなたは何人の賛同者がいますか。それはどのくらいの人が影響されていますか。」とある雑誌社の人から尋ねられたことがある。
もちろん、雑誌社の経営は売れるかどうかに左右されるから人気は重要なファクターだろう。理解できる。
しかし、我々は、そんなレベルで思考していない。
我々の人生で成功するかどうか、教会を千人教会にするか、スーパーチャーチにできるかどうか、そんなレベルのこと考えていない。
孫やその孫の代に成功しているかなのだ。
契約的な考え方とはこのようなものだ。
もし、自分の世代で成功することを期待しなければ意味がないなら、アブラハムは失敗者だ。
なぜならば、アブラハムはパレスチナの領土を神から保証されたが、自分の代ではわずかしか手に入らなかったから。
ヤコブから430年たっても、0だった。
なぜならば、イスラエル人はその間エジプトにいたから(出エジプト記12・40)。
470年たってやっと帰国し、所有した。
所有したといっても、まだ先住民族がいた。
厳密に言えば、そして、物理的に言えば、アブラハムへの約束が完成したことはない。
だから、イスラエル人は、将来に期待している。
実に4000年も約束を待ちつづけている。
(しかし、イエス・キリストにおいて「法的に」パレスチナの領土は契約の民に回復したのだが。おそらく将来において「実際的に」アブラハムの約束の地はユダヤ人に回復するだろう。ただし武力によるのではなく。)
契約の世界とは、このようなものだ。つまり、子孫を通じて実現することを期待する世界だ。
今のキリスト教は、教会成長学によって、会社経営の手法が取り入れられ、世俗経営学が教会運営に侵入した。
そのため、短期的結果を求めるようになった。
それによって、牧師が契約的な思考ができなくなり、安易な結果を求め、いわゆる「一獲千金」を求めるようになった。
自分のレベルを下げ、ノンクリスチャンに媚を売り、世俗的な魅力でひきつけようと画策した。タレントを教会に招いて、「みなさん、TVで○○さんをご存知でしょう。実はクリスチャンなんです!では証してもらいましょう!」
そのために、教会は堕落した。
非常に低俗になった。
聖書翻訳も、教会成長学の影響で、安っぽい訳になり、言語学的に、文学的、美学的に問題がある訳が出回っている。
人間中心のゴスペルソングによって、教会の音楽から威厳が消えた。
教会は世の光である。世に高い基準を示すところだ。それが自分を安売りするようになった。
すべては聖書の契約的思考法を捨てたところから起こった。
自分の代で成功なんかしなくていい。自分は自分のすべきことをする。自分の働きによって1人も影響を受けた人がいなくてもいいじゃないか。神は必ず見ていてくださる。報いを与えてくださる。
聖書の基準を動かさない。どんなに受けが悪くても基準を変えない。
馬鹿と言われようが、盲信、狂信と言われようが聖書を神の言葉として堅く保つ。
聖書を前提として考え、世俗の思想を相対化し、批判的に見る。
聖書契約的思考法を回復しよう。
2008年6月17日
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