批判するんだったらまじめにやれ
創世記でアダムとエバが食べたのは「りんご」であるという間違いは、キリスト教批判者としては致命的である。
なぜならば、キリスト教において、創世記の堕落の記事に、どのような実を食べたと記されているかはきわめて重要だからだ。
これは、聖書全体に影響を与える大問題である。
「善悪の知識の木の実」を食べたということは、ある重大な事実を象徴している。
それは、「人間は善悪を自分で設定する法制定者=主権者=王になった」ということを意味する。
つまり、クーデターである。
法律は、善悪の判断基準に基づいて制定される。法律を見れば、その国がどのような道徳観を持っているかが分かる。
善悪の知識は、神から得なければならない。
被造物であり従属者である人間は、創造者であり主権者である神が定めたとおりの善悪を受け入れなければならない。
しかし、アダムはそれを嫌った。
彼は、神が禁じた方法で善悪を手にいれた。
自分で善悪を決定し、神の基準を退けた。
神が「これは善だからこうしなさい」、と言うと、「いえ、そう思いません。私はそれよりもこちらのほうが善だと思います。」と答えるようになった。
アダムは、御国として創造された地球の上に、独立国を打ち立てた。
創世記3章の木の実が「りんご」であるのと、「善悪の知識の木の実」であるのとは、雲泥の違いがある。
相手の教典の一字一句にこだわることができない人間は、批判者として失格である。
「宗教」という漠然とした概念をいじくり、相手の真摯な主張を精査せず、ただ「印象」だけでものを言い、相手を断罪するような人間は、「ベッドに合わせて足を切る」独善的な人間である。
2005年5月17日
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