半ヴァンティリズムではなく


学生時代の友人から私は先生に向いているから学校の先生になれ、とよく言われたが、英語を教えるだけの仕事には興味がなかった。

実際にアルバイトで予備校とか塾で教えてみて、「虚しい」と感じた。

K塾から専任講師にならないかとスカウトされた。専任になれば年収は1000万になるらしい。他の大手予備校でも看板としてパンフに顔写真つきで紹介されていたがアルバイト以上のことをやる気になれない。

なぜだろう。これは、大学を出て入った会社でも同じだった。
社内試験でも歴代トップの結果を出したし、最初から幹部候補の人事の中に置かれた。給料も海外研修手当てがついて同期入社の人々の2倍ももらっていた。
しかし、不思議なことにまず自分の中で虚しさが消えない。

この謎はずっと続いた。どの仕事をしても、専業で会社とかに入ると、自分の道ではないという意識が取れないのだ。

大学の2年生の時に、伝道集会において献身をせよとの招きが行われてそこで決心をした。その時には、たしかにこの働きは素晴らしいとは思ったが、しかし、職業的にそれを行うことは考えていなかった。

牧師の息子がやってきて「よかったですね。献身をして。」と言われて、何のことだかわからなかった。

しかし、後で考えてみれば、あの時にすでに自分が祭壇に捧げられていたのだ、ということが分かった。

神殿で用いられる聖具は他の場所で使ってはならない。
聖具を酒盛りの器に使ったベルシャツァル王には神の裁きの手が現われ、壁に破滅の宣言の言葉が記された(ダニエル5章)。

献身をした人間はその他の仕事ができないのだ。これが私が長い間苦しんだ経験に対する回答である。

しかし、献身したら牧師になるのが当然だろうという意識がこの業界にあるが、牧師には重荷を感じないし、虚しさは取れない。やはり、思想を扱う仕事以外やるべきではないと思う。

1996年に按手礼を受け、長崎で「十字架を負って従え」との言葉を受けて、本格的に自分の働きが始まってから、まさにサタンとの本格的な戦いがはじまった。

それまで39年間生きてきてこれほどまでに敵を意識したことはなかった。それほど強烈な攻撃にさらされた。

まず経済的な攻撃、健康に対する攻撃、思想的攻撃、様々足を引っ張る人間が現われて、小説を読んでいるかのようなストーリーの連続だった。実際に、右足をいつも引っ張られている感覚が抜けなかった。

私を助けた人々も同じような攻撃に遭った。

たしかにサタンが我々を攻撃する理由はある。それは、我々の働きが、これまで歴史的になかったほどの本質的な攻撃だからだ。

セオノミーだけ、ポスト・ミレだけ、前提主義だけ、統治主義だけ、契約主義だけ、または、これらの2,3の組合せだけという運動はあった。たとえば、今のカルヴァン派の主流は、前提主義と半セオノミー、契約主義だが、我々は、これらにアメリカ・ピューリタンのポスト・ミレ、統治主義を加え、すべての歴史的な要素を全部ワンセットに同時に揃えたのだ。

これはサタンにとって恐ろしいことである。ある意味において、マルクス主義が徹底したヒューマニズムであり、神をあらゆる領域から徹底して排除する思想であるとすれば、再建主義は、それに真っ向から対抗する神中心主義であると言える。

しかし、ヴァン・ティルの前提主義が歴史に登場した以上、これは歴史的必然なのである。ヴァン・ティルが「あらゆる領域について聖書が認識の出発点である」と主張したときから、このような運動が起こるのは決まっていたのだ。

今カルヴァン派はヴァン・ティルを受け入れている。

ヴァン・ティルが現われてから、彼の思想を薄めて中立に流れる部分と、それを徹底化する流れと二分されているが、日本の場合、神学校で後者を取るものはない。

ある意味において、中立に流れたからこそ、超教派の神学校でいられるのだと思う。もし、我々のような徹底したヴァンティリズムに立てば、教会は生徒を送らなくなるだろう。

しかし、この世界に中立など存在しないというのが、ヴァン・ティルの主張なのだから、中立の立場が存在する可能性はないのだ。

半ヴァンティリズムはそれ自体、矛盾である。こんなものは永続しない。必ず純粋ヴァンティリズムに移行する。中途半端なものは生き残れない。なぜならば、歴史は、「麦と毒麦を選別する過程」だから。神が望まれているのは、「熱いか冷たいかのどちらか」だから。

今の時点で、純粋ヴァンティリズムを主張する我々を受け入れる神学校は皆無だろう。あまりにも過激に見えるからだ。

しかし、ヴァンティリズムの内容そのものがその「過激さ」を持っている以上、中庸を取ることなど不可能である。それは、諸教会に顔を立てようとする人間的配慮であって、ヴァンティリズムの否定である。

私は、ヴァンティリズムを徹底化させるという使命を与えられたのだと思う。そのためにこそ、能力や性格を与えられたのだと思う。だから、それ以外のために使用すると裁かれるのだと思う。

 

 

2004年7月3日

 

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