格差が生まれる原因
勝ち組、負け組なる言葉が流行っている。
格差反対の声は依然として強い。
そして、格差解消のために、累進課税を強化して金持ちに重たい税金をかけるべきだと結論する人々が多い。
しかし、どうだろうか。格差とは、「罪や悪によって生まれるもの」なのだろうか。
もし格差が罪や悪によって生じるならば、解消することも必要だろうが、しかし、それが正当な手段で、公平な競争のもとで生まれているならば、どうして解消しなければならないのだろうか。
むしろ、公平な競争で勝利した人と、敗北した人との差を縮めることは悪である。
オリンピックで勝利するために正当な手段で努力を積み、優勝した者も、びりケツも、同じ待遇に処するということになれば、オリンピックの人気はがた落ちになる。
格差そのものを悪としたら、正当に努力した人々に不満が残り、「正直者が馬鹿を見る」社会になってしまう。
「東大生の親の年収は高い。塾に通わせることができる資力があるからだ。これじゃあ世代を経るごとに差が拡大するばかりだ。」という類の議論が横行している。
東大に入ったのは塾にいけたからか?教育に金をかけられたからか?
私は違うと思う。
経験から言うと、東大に入る生徒とそうでない生徒の違いは、「未来を見る力」である。
概して、彼らには、将来に備えて現在我慢することができる能力がある。他の生徒が遊んでいる間に勉強し、自分の将来のために投資することができる。
東大生が有能だという評価は、彼らの優れた「現実感覚」と「計画性」から来る。
東大に入れるかどうかは、親の資産よりも、本人のやる気、真剣さである。
それと同様なことが勝ち組と負け組についても言える。
勝ち組と負け組の違いは、「資力の差」よりも、「現在を犠牲にして未来に投資できる能力の違い」である。
予備校で10年教えて感じたのは、「できるクラス」と「できないクラス」の生徒は、能力の差だけではなく、思想や文化とも言えるくらいの差があるということだ。
ちょっと見ただけで分かる。顔つきが違う。服装も違う。
できるクラスの生徒は、顔つきが精悍で、服装も清潔でしっかりしているが、できないクラスの生徒は、顔つきがだらんとして、服装も乱れ、不潔なことが多い。
もちろん例外はある。しかし、こういう傾向があるということは教職を経験したことのある人なら誰でも感じているのではないだろうか。
そもそも、予備校に入る時点で基礎的な文法力もできていないということは、いかに未来に目を向け、それに対して真剣に備えることを怠ってきたかということを証明している。
どの時代においても格差は生じる。
そしてそれは、罪や悪や不正の結果としてではなく、本人の心構え、思想、文化によって生じるのである。
だから、現在はやっている格差解消の訴えは間違いなのである。
2007年1月14日
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