牧師や伝道師など御言葉の責任を負っている人々を軽々に批判するな2


医者や弁護士など、国家資格試験をパスしないとなれない仕事に対しては人々はお金を払うことを惜しいとは思わない。

ある意味において国家資格や名のある機関からのお墨付きでその知的情報を評価するからだ。

しかし、牧師や神学者などになるには国家資格がないし、その情報が正しいかどうか不明だということもあって、その教えを軽んじる傾向が、クリスチャンの間ですらあることはどうしても否めない。

だから、さんざん質問したり、メールを受け取ってこちらがものすごい量の読書をし、学校に通い、30年思索して身につけた貴重な情報をただで受け取りながら、平気で「二度と送るな」などということがいえるのだろう。

はっきりいって、神学者や宗教家を軽視・愚弄するのは、野蛮人である。

ある人間は「貴様」からメールが始まる文章を送りつける。

言語道断。神の恐ろしさを知らない無知蒙昧な人種。

さあ、諸君。昔、預言者は国家試験を合格したか?有名な大学や証明書があったから彼らは神に使わされたのか?

いわゆる「博士号」とか学位というものは、「審美眼」のない人間のためのものである。

いちいちその領域のことについて勉強して知識を得なくても、相手を評価できるようにと編み出されたものが学位や資格のシステムだ。

つまり、社会的なツールに過ぎない。

博士号がその相手の真価を証明するものではけっしてない。

博士号を持っていてもまったく話の相手にならない人間はわんさかいる。

「出身学校」や「牧師の肩書き」、「博士号の肩書き」でしか判断できない人間は、盲目だ。

審美力を磨いている人間は、人を肩書きで評価しない。

 

 

2008年7月3日

 

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