クリスチャンの業はキリストの業と見なされる
一つの迷信がある。
それは、「人間がやったことは、善であれ悪であれ消えてしまう」という。
これは唯物的進化論が作り出した虚構である。
この宇宙は創造されたものだ。その証拠はいたるところにある。
しかし、人間はそれを否定する。なぜか。
自分が犯した悪を消したいからだ。
自分の願望を優先したために、人々はこの宇宙を非創造物にし、自分の犯した罪は闇に消え、誰も知っている人はいない、と考えた。
しかし、この宇宙は創造されたものであり、そこには計画があり、意図がある。
だから、我々のなした業はすべて記録されている。
神が人格的なお方であり、法を制定された以上、違反者は処罰する以外にはない。
法を制定されていなければ別だ。
しかし、この宇宙は法によって支配されている。
だから、この法秩序を維持するためには、違反者を処罰せざるをえない。
もし日本国が、警察を通じて違反者を取り締まり、裁判所で処罰を決定し、行政がその違反者に処罰を下さなければどうなるだろうか。
違法者が無数に増え、秩序は崩壊する。
だから、法秩序がある以上、その法に違反した人は必ず罰せられる。
神の法秩序である宇宙において行われた業はすべて神の裁判にかけられる。
神は罪人を裁かざるを得ない。
「死んでしまえば、あとは無だ」などと考えている人は、勝手にそう考えているに過ぎない。イエスはこう言われた。
人には一度死ぬことと、死んだ後に裁きを受けることが定められている。
2009年10月30日
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