キリスト教に競争と訓練を呼び戻そう


最近、世の人だけではなくクリスチャンも「愛」を誤解している。

その証拠は、「子供を叱らない」ということである。

教会の礼拝や学習会などで子供が騒いでいるのに叱らない。平気で講壇の周りをうろちょろしても黙って見ている。

なぜこうなったのだろう?

「愛は人を裁かない」と教えられてきたからだ。

「神は人の罪を許し、私たちに永遠の命を与えてくださった。だから私たちも人を裁くのを止めよう。子供を叱らないようにしよう。」

こんな変な考えにはまったからだ。こんなのは愛ではない。

彼らは、神は救いに関して条件をつけないが、救われた後の生活については条件をつけて裁くという聖書の教えを知らない。

パウロは、「救いの土台」は無償だが、「土台の上に何を建てるか」は個々人に裁きはあると述べている。

「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」(1コリント3・11-15)

神はイエス・キリストとという土台を据えてくださった。
それは無償の愛による。我々はただで土台を据えてもらった。

しかし、我々は、その上に家を建てなければならない。
土台だけで満足している人はいない。
土台があるのは、家を建てるためだ。

我々は、人生の中で「神の御国を拡大する」という家を建てなければならない。

イエスが命令されたように「すべての国民をわたしの弟子と」しなければならない。

最後の日に我々の建てた家は火の試練を受ける。

神のために人生でなした仕事は評価される。

神の御国の拡大のために努力すれば、実は残る。
永遠の報いを受けることができる。それは、百倍以上の報いだ。

しかし、もしひたすら自分の快楽のために何かをなしたならば、すべて消えてしまう。
大伝道師として名をあげても、神のために純粋な気持ちでやらず、自分の名誉や権勢のためにやっていれば全部灰になる。

たしかに土台だけは残るだろう。つまり、イエス・キリストの信仰によって命だけは助かる。

しかし、報いは受けられない。なぜならば、この世界ですでに受けてしまっているからだ。

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(マタイ6・1)

偽善者には報いはない。

さあ、注意しよう。

救いは無償である。我々は信仰のみによって救われる。しかし、信仰に入った後にどのような人生を作るかは評価の対象となる。

ここで、訓練という問題が生じる。

どのスポーツでも勝利の栄冠を得るためには努力しなければならない。

毎日汗を書いて技術の上達のために努力しなければならない。

クリスチャンは、聖書を読み、聖書の教理に通じ、正しい教えを知るために努力しなければならない。

そして、その信仰を実践しなければならない。

ただよい教えを持っていても実践しなければ何にもならない。

実践には苦労が伴う。この世界がどんどん悪魔的な思想にかぶれ、悪魔的な犯罪に支配されているときに、聖書の教えが支配するように政治家を選び、経済を豊かに繁栄させなければならない。

ここに今のキリスト教が忘れてしまった要素がある。

つまり、「訓練」である。

「無償の救い」と「救われた後の良い行い」とを混同してはならない。

クリスチャンの子弟がこの世の子供以上にだらけるようになれば我々の将来はないだろう。

競争と訓練、克己心、…

こういった要素が欠けたキリスト教の中で子供が駄目になっているのを放置してよいだろうか。

我々は、まず考え方を健全なものに戻そう。

本当の愛とは、競争と訓練の中で互いに磨きあうことを求めるものだ。

キリスト教に競争と訓練を呼び戻そう。

 

 

2005年8月9日

 

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