誤解を正す


インターネットのサイトを見ていると、いろんな人々が私の発言に関して誤解しているのを見かけるので、誤解を正そうと思う。

誤解1.「教会に十分の一献金をしない人は、教会員になれない。」

私は、教会員になれないというのではなく、「正会員」になれない、と言っているのである。

正会員とは、選挙で長老と牧師を選ぶ権利がある会員である。

経済的に教会に重荷をもてない人々に長老と牧師を選ぶ権利を与えるならば、無責任な人々や悪意をもつ人々による教会ののっとりが簡単に起きる。

教会は、会社など、あらゆる組織と同様に、「管理運営会員」と「一般会員」を区別すべきである。組織をまともに維持するにはこのような区別が必要であり、経済的な責任を負うことをしない人間に運営上の発言権を与えるべきではない。

誤解2.「教会は人間の救いを左右する権限を持っている。」

これは正しいとも言えるし、間違っているとも言える。

教会には、救いを左右する権限が与えられている。

教会は、教えと行いに関して教会員を選別する使命がある。教会はキリストの御体であり、異端の教えを受け入れ、不品行・姦淫などを犯している人間を受け入れることは、御体を汚すことである。

「私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。
外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。
外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」(1コリント5・11−13)

教会に加わる資格のある人は、「罪を犯しても、それを悔い改め、イエスの主権を認めて積極的に服従する人」でなければならない。

教会が堕落してしまって、牧師や長老が(聖書に基づかない)人間的な権威をふりかざして、教会員を選別するならば、その選別は無効である。そのような教会から追い出されても気にすることはない。

誤解3.「tomiは神社参拝を勧めている。」

私は、神道の起源にユダヤ教とキリスト教があったのではないか、と仮定しているだけで、「神社参拝すべきだ」などと言っていない。

神道は、キリストを主と認めていないのであるから、その礼拝は悪霊礼拝であり、クリスチャンは絶対に関わってはならない。

誤解4.「tomiは律法主義を教えている。」

律法主義とは、「律法を守ることによって人間は救われる」とする見解である。

私は、「人は、イエス・キリストへの信仰によって『のみ』救われる」と説いている。

ただ、その「信仰」とは、「単なる教会の礼拝出席」を意味しているのではなく、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主を愛する」ことも意味している。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10・9)

だから、当然、クリスチャンは、律法をはじめとする、神の御心が啓示されている御言葉を守ろうと全力を尽くすはずである。

律法を毛嫌いしたり、それを廃棄されたものとして扱うような人間に「救いにいたる信仰」があるとは考えられない。

 

 

2005年12月13日

 

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