プレテリズムの聖書解釈4


<OK様>
プレテリズムの聖書解釈シリーズ、とても具体的で教えられる点が多いです。続けてほしいテーマの一つです。Oさんの言われているように「パーシャル/フルプレテリズムの立場ををとると、これまでなされてきたメッセージがひっくり返りそうなところがいくつもありました。」

この発言はプレ・ミレの終末観を聞いてきた者の実感かと思います。私の場合、教会でのメッセージに関していえば、終末に関するものは比較的少なかったですが(一定期間終末に関して学んだことが多かった時期があります)大きな影響を受けて育ったことは確かです。終末に関する本については、読んだものほとんどプレ・ミレの立場からだったようです。Oさんの立場は、よく理解できます。

90年代の終わりのころから教会の回復、万物の更新の状況を見るにつけ、プレ・ミレはおかしいのではないかときずき始めました。私は、教会は、栄光を持って終わるというレストレーションの立場をとっていたので(今もそうですが)そのように考えたのです。そうこうしているうちに、03年になって富井さんのミレニアムのサイトに出会ったわけです。

勉強したいことが多くあるので、これからも少しずつ質問や提言したいと考えています。宜しくお願いいたします。困難もあるとは思いますが、この働きを続けてください。

<tomi>

お励ましを感謝します。

これまで、終末に関する記述と考えられてきた記事が、本当に終末に関するものなのか、プレテリズムの研究が進むにつれて、疑問が起こってきました。

プレテリズムは、「聖書は聖書によって解釈する」という聖書解釈の原理に立っています。

たとえば、これまで世界の終末に関する預言と漠然と考えられてきた第2ペテロの宛先は、ペテロと同時代に生き、ペテロの励ましを必要としていた迫害下のクリスチャンたち、つまり、「私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々」、その中にパウロの「手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いている」人々がいるクリスチャンたちと考えられます。

聖書を聖書によって解釈するという原則を尊重するならば、第2ペテロの「すべての」メッセージは、徹頭徹尾、これらの人々に向けられていると考えなければなりません。

これをプレ・ミレのように、いかなる根拠もなく「西暦2004年の日本のクリスチャン」への直接的メッセージと解釈することはできません。

それは、今から千年前に、和泉式部が恋愛相手である帥宮に宛てた恋文を「これは私に向けたメッセージだ」と考えることがまったくできないのと同じです。

この原則に立つならば、当然のことながら、3章3節の「終わりの日に、あざける者どもがやってきてあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」における「あざける者」とは、紀元1世紀に住むこの手紙の読者たちのもとにやってきてあざける者たちのことであり、「先祖」とは、紀元1世紀に住むこの手紙の読者たちのもとにやってきてあざける者たちの「先祖」なのです。

そして、「終わりの日」とは、紀元1世紀に住むこの手紙の読者たちと、彼らのもとにやってきてあざける者たちにとっての「終わりの日」なのです。

この「終わりの日」は、これらのあざける人々があざけり続けることを許さないほど切迫しており、紀元1世紀に住むこの手紙の読者たちが「来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければならない」ほど間近に迫っているのです。

紀元1世紀の人々が「来るのを早めなければならない」と命じられた日が、どうして西暦2004年のある日でしょうか?

紀元1世紀の人々に向けられた「時が近づいている」という切迫した警告をどうして、西暦2004年に生きている我々が自分に対する警告として受け取らなければならないのでしょうか?

そう考えていけば、当然のことながら、これは、「世界の終末に関する警告ではない」ということが分かるはずです。

そして、それに伴って、滅びるといわれている3章7節の「今の天と地」は、文字通りの天地ではなく、「大きな響きをたてて消えうせる」天と、「焼けてくずれ去る」天の万象と、「焼き尽くされる」地と地のいろいろなわざは、文字通りの意味に解釈してはならないということになります。

これらは、旧約聖書において預言者たちが、イスラエルやその他の国々に向けて、滅亡の警告を、天の崩壊という比喩で表現したのと同じ表現方法だと分かるはずです。

「彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。」(イザヤ34・2-6)

このエドム人に対する預言は文字通り成就しましたか?紀元前6世紀に天の万象は朽ち果てて、天は巻物のように巻かれましたか?

聖書の預言を文字通り解釈することはできません。

ペテロの警告は、同時代人に対するものであり、「イスラエルの終末」に関するものでした。

我々は、ここから、「第2ペテロにおいて、世界の終末に宇宙的破局が来る」と解釈してはなりません。


<OK様>
AD70年以降が1000年王国の始まりならば、キリスト誕生から2000年以上が経過した現在、プレ・ミレと思われる立場からの世界情勢の分析にも注目して良い部分があるように思えます。たとえば、ロシアのアメリカ攻撃、第三次世界大戦とかです。ゼカリヤ書の解釈などとあわせて富井さんの見解をお聞かせください。(ジョン・コールマン氏は、どういう立場か知りませんが、ロシアのアメリカ攻撃を警告しています。)

<tomi>
黙示録の数字を文字通り解釈することはできないので、千年以上経過したから千年王国の預言は外れたとはいえません。

もし黙示録の数字を文字通り解釈しなければならないとするならば、天のエルサレムの長さと幅は2,220kmで、城壁の高さは67mになり、その巨大な町が天から降りてくると解釈しなければならなくなります。

この長さと幅「12000(スタディオン)」は、12 x 1000 と分解でき、高さ「144(ペーキュス)」は、12 x 12 と分解できます。

12はその直前の「小羊の十二使徒」と当然対応していると考えられますから、この町は、12の使徒たちが統治すべき場所として彼らに与えられているということを意味しています。

千年王国の千年とは、完全数10の3乗です。聖書において3乗は、至聖所や天のエルサレムの寸法にも使われており、「完全なもの」を意味しています。

キリストの支配が聖く完全であることを表現していると考えるべきでしょう。

世界の破局を前提にすると、マタイ28章の大宣教命令を正しく解釈することができなくなります。

マタイ28章では、「すべての国民を弟子とせよ」と言われており、世界の弟子化が完成することと終末の破局的様相とを調和させることはできません。

 

 

2004年10月21日

 

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