無償の愛は聖書的ではない9



責任や負債は、すべて果たし、全額支払わねばならない。

これが聖書の不動の原理です。

100万円払うべき負債があれば、100万円払わねばならない。このバランスは聖書において絶対なのです。

いいかげんに済ませられることはない。

神に対しても人に対しても100万円払うべきならば、100万円払う。

神に対する負債については、巨額であり、どんなにがんばっても払うことができないので、イエス・キリストが身代わりに払ってくださる。

それで神との間には「あとくされ」がなくなる。

しかし、人間に関しては、具体的に弁償する責任があります。信仰にはいったから赦されるなんていう問題じゃない。

クリスチャンだからといって、もしコンビニに入っておにぎりと牛乳を買って、そのまま出てきたら万引きです。

対社会的な責任は常につきまとう。

だから、どのような人間的な行為に対しても我々は責任を伴う。それを完済していけるのが大人であり、それを親に代わって払ってもらうのが子供です。

子供だからというので、コンビニでものを自由にただで食べられるわけではないように、子供であっても、責任は常につきまとう。

このようなギブ・アンド・テイクで成立しているのです。

社会は。

だから、もし自分が相手に対して負っている負債を払わなくてもいいならば、それは、「相手が同意した場合」だけです。

同意なしに相手に対して自分の責任を果たさないならば、それは、社会的に負債を負った状態であり、「実質的に大人ではない」。

今のキリスト教の「無償の愛」によって、クリスチャンが子供化した。

ノンクリスチャンは、この「負債完済義務の法則」をよく理解しているが、クリスチャンはこの異端の教えによってそれをうやむやにしている。

負債を完済するように求める人に向かって「○○さん。それは愛がないですよ」などとぬけぬけとほざく。

皮膚が破れると血が出るが、自然はそれをふさいで元通りにする機能がある。ホメオスタシスというやつです。これと同じように、神との関係でも、社会との関係でも、聖書の原則は、「原状回復をする義務」です。

 

 

2010年5月22日

 

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