主権在民が聞いてあきれるわ
本村氏が、敵は司法にあると感じたとかつて語ったそうだ。
たしかに、地裁と高裁の判断は、被害者を無視したひどいものだった。
私は、少年法によって18歳未満の人間に死刑判決がくだらないという規定に反対だ。
なぜならば、これは、被害者の側に立っていない法律だから。
被害者側から見れば、成年に殺されようが少年に殺されようがまったく変わりはない。
そんなことどうだっていい。16,17になれば、子供でも大人でも殺す力は十分ある。
現在の法律では、大人に殺された場合はラッキー、少年に殺された場合はアンラッキーということになる。
遺族としては少年法は腹立たしいものである。そして、遺族そして国民にとって、この法律は正義を踏みにじっていると感じられる。
この法律は、被害者は国だ、という思想に基づいて作られている。
「国の秩序が乱された!」という国の被害者意識によって生まれた法律である。
直接の被害者から見れば、相手が少年であろうと成年であろうと関係ない。殺されるという被害に違いはない。
それが国の都合によって、刑罰が科せられない、もしくは、刑罰が軽いということになる。
被害者は蚊帳の外である。
本村氏は、法廷に亡き妻の遺影すら持ち込むことを拒否されたという。
ふざけんな。司法!
聖書は、被害者が刑罰を決めることができると規定している。
命を奪った者に対しては命を要求できる。
目を損なった者には同じ目を損なう権利が与えられる。
賠償はその罪の大きさに応じて変化する。
つまり、聖書における刑罰とは「平等化」である。
それが、今のヒューマニズムの体制においては、国家がしゃしゃり出て、自分の都合だけ考えて被害者のことを無視している。
これじゃあ、不満は残るじゃないか。
犯罪被害者の数が少ないため、騒動に発展することはないにしても、こういった不満を看過すると国家の基盤を揺るがすことにもなりかねない。
昔はどこの社会においても、あだ討ちや決闘が許されており、ある地域では親族の敵うちが義務とされていた。
このようにして犯罪に対して社会は「平等化」のシステムを作り、それによって恒常化が実行されていた。
今のヒューマニズム国家は、このような平等化を行っていない。デコボコができたままだ。
いろんな鬼畜による殺人事件において司法が極刑以外の判決を下し、やつらを市中に野放しにするものだから、遺族の心中にはしこりが残り、一般市民は再犯を恐れながら生活している。
こんなんでいいのか。裁判所!
もっと国民のことを考えろ。主権在民が聞いてあきれるわ。
2006年6月20日
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