律法の本体は不変である
<Q>
律法について質問があります
「律法は廃棄されてない」
これはキリストが言ったことです。
それならば旧約聖書の出エジプト記や申命記に書かれている律法は廃棄されていないんですよね?
しかし、動物の生贄は十字架によって必要がなくなりました。
このように現代になって意味がなくなった(意味のない律法なんかありませんが、動物の生贄のような類のことです)律法は他に存在しますか?
もしそうなら具体的にどういったものですか?
意味がなくなった(意味のない律法は存在しませんが、まあ動物生贄の類のことをさしています)律法となくなってない律法の違いは何ですか?
<A>
律法の存在意義は不変です。
キリストにおいて、レビ律法はメルキゼデク律法にバージョンアップされました。
つまり、民族的であったものが超民族的になり、普遍化された。
動物犠牲は、キリストという本体が現れたので、不要化した。
実体から見れば、犠牲律法は旧約新約において変化はない。
旧約においては動物をささげていたが、新約ではささげなくてよくなったということではない。
旧約においては動物をささげていたが、新約ではキリストをささげるようになったということ。
旧約では動物を祭壇で焼いたが、新約では、キリストを信じて、罪を悔い改めるという形に変わったということ。
人間はいつの時代においても同じことをしなければならない。
じゃあ、食物律法についてはどうか?実体において変化はない。
実体は、「善悪・聖俗を区別せよ」ということ。旧約時代においては、契約の民は、食物を通じて、自らを聖めるべきとされた。新約時代においては、「すべて神を前提としない事柄を悪とし、俗」と考えるべき。
だから、無神論の科学は、クリスチャンにとっては悪であり、俗です。クリスチャンは、こういうものを「そのままの形で飲み込むべきではない」。
一度、聖書のフィルタ、「神中心」のフィルタを通して、学ぶ。
聖書を基準とせず、神中心に物事を組みなおす作業を経ないで受け取るクリスチャンは、どぶ水を浄化せずに飲む人と似ています。
子供にノンクリスチャンの学校で教えられたことをそのまま与える親は、子供にどぶ水を飲ませて病気にしているのです。
だから、アメリカにおいても、ノンクリスチャンが増えている。
律法は、旧約新約において、「実体的には」変化はありません。
ただ、ユダヤ民族の時代が終わり、全世界の人々が契約に入る時代になった新約時代において、それに合う形に変化したということです。
(1)キリストという実体が現れたため予型であったものは廃れた。
(2)民族的時代的な規定は超民族化、普遍化された。
この2点を変化の基準とすべきです。
<Q>
また、「殺人者は石で殺せ」とありますが、
それでは今日殺人を犯した人を全て石で殺すことになるのではないでしょうか?
しかし、ローマ書には「世の権威は全て神が立てたものなので、従え」
とあるように今の死刑制度には現時点では従うべきなのではないでしょうか?
(聖書的死刑制度に変えたいですが)
<A>
神は革命を禁止されました。
立てられた権威を敬えといわれたので、私たちは、今の体制を尊重すべきです。
しかし、それは変えなくてよいということではなく、平和的な方法で、人々の気持ちや考えを尊重しながら、同意を得つつ改革を行うべきです。
だから、今の死刑制度に従うべきです。
石打に関しては、上記の2つの基準にもとづいて新約時代の処刑方法を考えるべきでしょう。
2009年7月22日
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