神は基準以外ではありえない2


神が基準である以上、その御言葉である聖書は基準以外の何物でもない。

「聖書は正しいか」というのは間違いである。

「聖書を正しさの基準とする」というのが正しい。

1mの原器に向かって「これは1mか?」というのがおかしいのと同じである。

その原器が1mの基準なのだから、それは1m以外ではありえないのだ。

神も聖書も、基準以外ではありえない。

だから、そこから出発しなければならない。

リベラル神学も、ディスペンセーショナリズムもこの原則を守っていない。

彼らは、神や聖書を評価の対象として見ている。

以前、ハーザー誌上で、私に対論をぶつけてきたリベラル神学者が、「福音を聞くチャンスも与えられなかった人が滅びることを許す神様など私は受け入れられない」と言った。

彼は、聖書を基準としているのではなく、自分の気持ちや倫理観を基準として神や聖書を裁いているのである。

彼は、実質的に「私は、聖書や聖書の神よりも愛がある」と述べている。

こういったのを本当の傲慢というのだ。

サタンは、園でこういった。

「神が何を言おうと、その実を食べても死にませんよ。」

神の御言葉よりも自分を上に置く罪は、究極の傲慢、サタンの罪に匹敵する。

ディスペンセーショナリズムも同じ間違いを犯している。

ディスペンセーショナリストは、聖書を聖書によって解釈しない。

黙示録の「獣」を、EUの大統領だとか、アメリカだとか言う。

獣についてヨハネは、「この数字を数えよ。読者よ悟れ!」と言っている。この「読者」とは誰か。この手紙の中ではっきりと「七つの教会に書き送れ」と言われているように、アジアの7つの教会である。

ヨハネは、彼ら紀元1世紀に地中海の小アジアに住む7つの教会のクリスチャンに向けて「悟れ!」と命令したのだ。

ならば、どうして、獣がEUの大統領であるはずがあるだろうか。

レフト・ビハインドや地球最後の日などの終末預言本は、歴史的・文脈的解釈という正統的な解釈法から逸脱した異端の教えに基づくものである。

ペテロは聖書の中で「預言の私的解釈」を厳禁した。

このような私的解釈は、聖書を基準として読まず、自分の主観や願望を優先しているので、偶像礼拝である。

英語のunderstandは、下に立つと書く。本当の理解とは、聖書の下に立つことによってはじめて得られる。

謙遜にならない限り、正しい教えを学ぶことは不可能である。

 

 

2008年2月12日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp