狭い門からはいりなさい


新天新地は紀元70年に到来した。

義人は復活した。

こういうことを言うと、「そんな馬鹿な」というかもしれない。

しかし聖書ははっきりとそう伝えている。

すでに述べたように、次のようにある。


「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6・15)

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 」(2コリント5・17)

キリストを信じるならば、すべてが新しい存在なのだ。

それは、新しい創造である。

だから、クリスチャンは、新しい創造、新しい天と地なのである。

古い世界とはまったく異なる存在。それが、クリスチャンだ。

キリストが復活し、昇天され、そして、紀元70年に到来され、天地の王座に正式に座られたときに、正式に天地は更新された。

これが、聖書がいう「万物の更新」であり「新しい天地」である。

イエスは、はっきりと神殿崩壊こそ天地の更新であると言われた。

「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」」(マタイ24・2−3)

「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24・34−36)

この箇所から、神殿崩壊は、旧約時代の終焉、そして、天地の滅亡を意味することは明らかである。

これを今の恣意的な解釈では、神殿崩壊と、天地の滅亡を別個に扱う。

しかし、文脈はこの2つを一連の流れの中で示しているのである。

「聖書は聖書によって解釈する」という聖書解釈の原則を適用するならば、神殿崩壊をもって天地の滅亡と解釈しなければならない。

さて、神殿崩壊は、紀元70年に起こった。

ということは、紀元70年に天地は滅亡したということになる。

これをわれわれの常識によって「世界の崩壊」と判断してはならない。つまり、ノストラダムスが予言したような世界の崩壊ではまったくない。

聖書にはそのような示唆は少しもない。

聖書では、古い時代の秩序が廃れて、新しい時代の秩序が到来することを「新天新地」と呼んでいるのだ。

イスラエルを統治していた、旧い律法は廃れた。

そして、新しい律法が支配する時代になった。

それは、キリストの律法とも呼ばれる。

これは、旧い律法と無関係ではありえない。

ディスペンセーション神学は、律法は廃棄されたと唱えるが、イエスご自身がはっきりと「私は律法を廃棄するために来たのではない」と言われた。

新しい律法は、バージョンアップされた律法である。

どのようにバージョンアップされたかというと、まず、贖罪の動物は、キリスト本体になった。

だから、もはや動物犠牲は不要だ。

われわれはキリストを信じて、罪を悔い改めるならば、許される。

このようなセーフティネットが敷かれている上に、われわれの行動指針が記されている。

それは、十戒をはじめとする諸規定である。

諸規定は、すべてキリストによって成就されたので、われわれは完璧に守る義務を負わない。

完璧になるように努力する責任はあるが、失敗してもいい。

なぜならば、われわれの契約の主であるキリストがすべて成就され、われわれは彼との契約に入っているので、彼が守ったことをわれわれが守ったとみなされるからだ。

だから、クリスチャンとなった人はすべてキリストにおいて完璧に律法を守っている。だから、完璧に守った者だけに与えられる「被造物の永遠相続権」を手に入れることができた。

われわれは、欠けの多い者だが、イエスのゆえに、永遠の資産を手に入れた。

さて、2つのこと(罪の許しと永遠の相続)を手に入れたわれわれであるが、だからといって、この地上生活を無軌道に送ってよいということではない。

あくまでもわれわれが罪を許され、永遠の相続を手に入れるには、契約にとどまらねばならない。

契約にとどまるには、神に対する絶対服従が必要だ。

だから、意図的な、故意の、無知の理由ではない、違反は、契約解除に値する。

あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(1コリント6・9−10)

契約にとどまるには、罪を悔い改めて、最善を尽くして神を礼拝することである。

だから、ホモのクリスチャンなどありえない。

ホモを続けるならば、地獄を覚悟しなければならない。

また、十一献金の意図的な不払いをするクリスチャンなどありえない。

十分の一は、あくまでも「自分自身、そして、財産はすべてあなたのものです」ということの告白であるから、十分の一も惜しんでいるならば、自分をささげていないということであり、自分をささげない人は、旧約で言えば、全焼にいけにえを備えることを拒否することに等しいわけだから、契約から排除される。

今のキリスト教は、「広い門」なのだ。

広い門からは、滅びにいたる人々が入る。

大衆伝道で結果を出すことをあせって、間口を広げてしまった。

だから、十一献金で躓くようなレベルの低い人たちまで教会に入ってしまった。

はっきり言おう、全的献身のしるしである十一献金ができないクリスチャンは、契約から排除される。

だから、罪の許しもなく、永遠の相続もない。

地獄行きである。

さあ、新しい秩序が始まった。

サタンはクリスチャンの間に、この新しい秩序では、「律法は無効になり、何をやっても救われる」という偽の教えをはやらせた。

それにだまされて地獄に落ちる「クリスチャン」が続出している。

狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。(マタイ7・13)

「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。(ルカ13・24)

 

 

2010年8月3日

 

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