文部省認可の学位など邪道である
ある神学校の神学学位が文部省認可でないので当てにならない、ということを述べる人がいる。
そもそも学位というものは、大学や研究機関が独立に発行すべきもので、文部省などの認可を受けるべきではない。
なぜだろうか。
国家は、学問について権威ではないからだ。
学問について権威なのは、その研究機関である。
研究機関が政治的権力と無関係に独立して研究するから研究は価値がある。
政治のお墨付きを得たら、権力によって学問が曲げられることを避けることはまず不可能だ。
だから、文部省が認めるか認めないかなんてのは、まったくナンセンス。
むしろ、認められないほうがよい。
「じゃあ、研究機関の独自の判断をどうやって信用すればよいのですか」と聞く人がいるかもしれない。
「自分の目だ」。
自分の目、判断力、そういったもので、その研究機関を判断しなさい。
それしかない。
判断を国に依存するな。自分の目に依存せよ。
しかし、クリスチャンの場合は、聖書が唯一の権威だ。
聖書的であるかどうかでその研究機関を判断しなさい。
そして優れた研究機関が発行した学位を尊重しなさい。
もし聖書から外れるならば、その機関を排除しなさい。
その学位を無効としなさい。
そもそも、学位とか学歴というものは、「盲目な人々」「判断力のない人々」のためにあるものである。
肩書きを見なければ人を判断できない人間は自分の目に自信がない人だ。
自信がある人にとって肩書きなど意味がない。
人間としての成熟とは、人をどれだけ自分の目で信用できるか、だ。
だから、社長業をやっている人は実践で訓練される。
騙す人々、商売ができる相手かどうか誰も保障してくれない場合が多い。
自分の目で判断するしかない。
銀行のように、担保を取ることができれば話は簡単だ。しかし、商売はそんなことでは成り立たない。
だから、目を養う必要がでてくる。
この世は、官僚とかエスタブリッシュされた地位の人々を尊ぶが、聖書的に言えば、もっともえばってよいのは、企業家である。
自分の目で判断して、金を稼ぎ、実を結ぶことができる人は、そこから税金を取って暮らしている人々よりも圧倒的に立派だ。
聖書的な判断とはこのようなものだ。
2009年8月17日
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