石打刑を骨抜きにするようなキリスト教はキリスト教ではない


今の教会の人々が石打刑と聞くと、「ああ、それは旧約時代の話でしょう。我々には関係はない。」と一蹴する。

しかし、真面目なクリスチャンの方は、考えていただきたい。

聖書の中において、「旧約時代だから関係ないと一蹴してよい」と示している個所は皆無である。

むしろ、イエス・キリストご自身が「私は律法を廃棄するためではなく、成就するために来た。」「律法の一点一画でも地に落ちることはない」と言われ、パウロは、「信仰は律法を廃棄するのではなく、確立するのである」と述べ、「律法も言うように・・・しなさい」と信者に勧めている。

つまり、新約時代において、律法は、「確立された律法」に変わったというのである。

つまり、旧約時代の律法は無視できるものに変わったという今日のクリスチャン一般が信じている教えとは逆に、聖書は、旧約時代の律法は確立され、バージョンアップした、と述べているのである。

だから、「石打刑?あれは我々とは関係ない」と言ってはならない。

むしろ、「石打刑をバージョンアップすると何になるのか?」という疑問を呈するべきである。

イエス・キリストご自身がこのバージョンアップについて山上の説教で示唆しておられる。

「あなたがたは○○と聞いています。しかし、私は言います。・・・しなさい。」

これは、バージョンアップである。新約時代の律法である。

「姦淫するな」というのは旧約聖書の律法である。しかし、イエス・キリストによれば、それは「情欲を持って女を見るものはすでに心の中において姦淫を犯した」という律法にバージョンアップしたのだ。

旧約時代では、姦淫は回避しやすかった。旧約時代のユダヤ人は心で思っていても、実際に行為に及ばなければ大丈夫だと考えていた。しかし、新約時代になると、律法はバージョンアップし、心の姦淫も取り扱うようになった。

今のクリスチャンが律法についていかに間違った取り組み方をしているかが分かるだろう。

ディスペンセーショナリズムは、恵みの時代の人々にとって律法はもはや無効である、という。

そうじゃない。むしろ、厳しくなったのだ!!!

それは発展し、確立された律法に変化した。

だから、石打刑についてもこのように考えるべきである。

石打刑では、契約構成員が処刑に参加しなければならなかった。一般の人々が、石を受刑者にぶつけなければならなかった。

自分がこの立場に置かれたらどう感じるだろうか。

人を殺す手助けをするのであるから相当なプレッシャーであろう。

「神は愛であられる。その神がどうしてこのようなことを私に命令されるのだろうか。」といった疑問が湧き起こるだろう。

神のこのような戒めを実践するときに、我々は自分が思い描いていた神と、実際の神との違いに気づくだろう。

神は、義なるお方でもある。そして、その神の義は、殺人犯に石をぶつけて殺すことを要求するのである。

これが真実である。このような神の真の姿と違う姿を心に描き、石打刑に抵抗感を持って躊躇している自分の姿を見るときに、我々は、自分がいかに聖書の神を誤解していたかに気づくだろう。

それに気づいて聖書の神観念を受け入れられるならば、あなたは、真のクリスチャンである。

もし受け入れられないなら、あなたは偶像礼拝者である。

あなたは、あなたの願望が作り上げた偶像を拝んでいるに過ぎない。

もしあなたが、殺人犯に対して石をぶつけて殺すことができなければ、あなたの宗教とはキリスト教ではない。

「え〜、新約時代において石打刑はないはずです。」

というだろうか。

律法は、一点一画たりとも廃棄されていないのだ。律法は、むしろ確立され、不動のおきてとして心の板に刻まれているのだ。

もしあなたが新約時代における石打刑にあたるものとして心に描いている刑罰が、契約構成員による処刑参加を省くものであるならば、あなたは偶像礼拝者である。

誰でも石打刑から何かの要素を取り除き、その律法をダウンサイズしたり、劣化させるならば、その人は偶像礼拝者である。

神の義は、故意の殺人犯を石で打つことによって処刑することを求める。

この律法は確立された。この義のおきては、バージョンアップされた。バージョンアップされたということは、「やさしくなった」ということを意味しない。

姦淫が実際的行為だけではなく、心の姦淫も含むというように厳格な方向に変化したように、石打刑も厳格な方向に発展した。

このような考え方をしないキリスト教とはキリスト教ではなく、ヒューマニズムである。

 

 

2007年2月16日

 

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