有終の美を飾るために


今70-80代で、戦後のキリスト教界を担い、成功を収めた人々が最後の果実を刈り取る時期がきているような気がする。キリスト教界だけではなく、世俗の世界でも同じ現象が起きているようだ。

今回の巨人のオーナー辞任問題は、日本社会の談合体質、つまり、日本的社会主義の崩壊の象徴のような気がする。

あれは、渡辺氏のリーダーシップをこのまま許したら、球界全体が衰退するという危機感を持った人々が起こしたクーデターではないのか。

今70-80代の人々は、戦後の世界をリードし、日本を繁栄に導いた功労者である。彼らは終戦時に10-20代であった。30-40代の先輩がたは、戦争の責任を取らされて社会において相対的に影響力を失っていた。

そのような権力の空白の中で、持ち前のバイタリティを発揮して、がむしゃらに働き、道を切り開いた世代だと言える。

環境も彼らに味方した。朝鮮特需など景気を後押しするような様々な幸運に助けられて、今年よりも来年には所得は確実に上がると期待できた。その中において、世界でも類を見ない年功序列のシステムができあがった。

日本の戦後の社会主義体制は、このような、底抜けに明るい世代のがんばりと、幸運な環境が作り出した「奇蹟」である。

年功序列、年金、談合、・・・。

自営業者から見れば、組合のベースアップ要求は奇妙である。

自営業者は、毎年所得が上がることを当然のことと思えない。組合の人々は、「仕事の能力があがれば、給料も上がる、物価が上がっているので、給料も上がる」のを当然に思えるのかもしれないが、自営の人々は、仕事の能力がアップし、短時間で多くの良質な仕事をこなせるようになることが、必ずしも収入のアップにはつながらない。

逆に、客先から「そんなに仕事ができるのだから、もっと安い単価でできるだろう」と言われる。

それに今年景気がよいからといって、来年そうだとは限らない。

だから、公務員の年功序列に基づく給与テーブルを見るときに、民間の経営者はため息をつく。

年功序列も年金も、戦後の特殊な時代環境にのみ通用した特例的な制度である。

我々は、一日も早くこの事実を認識して、通常の時代環境に合った制度に切り替えなければならない。

制度だけではなく、今求められているのは、その背後にある思想の切り替えである。

70-80才代の人々は、成功体験があるものだから、自分のやり方や思想を疑わない傾向がある。そして、それが「晩節を汚す」ことにつながる落とし穴になっていることにも気付かない。

頭が柔軟な人は、切り替えることができるが、そうでない人々はいつまでも成功体験を引きずって新しい時代に対処できないでいる。

この世代の人々に特徴的なのは、「自然や世俗学問に対する無条件の信頼」である。近代の世俗思想、たとえば、自然法、民主主義などを手放しで受け入れている。

人間の罪性よりも善性を信じる傾向が強いので、実存主義よりも観念論的である。

だから、この世代に導かれてきた戦後日本のキリスト教には、ヒューマニズムが混入し、それゆえ、本当の意味での「福音による解放」は伝えられてこなかったのである。

カルヴァン主義者とは口では言うが、実際の神学はアルミニアン、半カトリックである。その証拠に、ヴァン・ティルを嫌うか無視する。

宗教改革の直前の時代は、自然理性を野放図に受け入れるスコラ神学の円熟期だった。エラスムスのようなヒューマニストが人々からもてはやされていた時代だった。毒麦が生長して実を結んだ時代だった。

それに対してカルヴァンが強調したのは、「理性は堕落している」「自然は堕落している」ということだった。

戦後日本の総括は、思想にまで及ぶべきである。日本を引っ張ってきたリーダーたちにとっては苦痛だろうが、それができなければ、有終の美を飾ることはできないだろう。

 

 

2004年8月14日

 

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