正しい歴史教育を回復しよう
学校教育において、歴史的事件をばらばらにとらえる訓練がなされてきた。
なぜならば、学校教育の世界観が、カント主義だからだ。
カント主義は、世界を創造されたものと見ない。
そういう「人間の経験が及ばないもの」つまり、聖書が提示する世界の創造だとか、霊的世界とか、物事の意味などいわゆる「物自体」の世界を、不可知ととらえる啓蒙思想に立脚しているからだ。
だから、カント主義において世界に存在する個物は、互いに独立し、関連性がないとする。
我々聖書的クリスチャンは、世界の創造という文脈が背後にあると考える。
りんごがおいしいのは、神が人間のためにりんごを創造されたと考える。
しかし、創造の文脈を見ないカント主義は、りんごも人間の味覚もそれぞれ互いに独立しており、りんごがおいしいのは「たまたま」と見る。
カント以降、個物と個物は互いに有機的な連関性を失った。
しかし、それでは人間は生きていけない。なんらかの連関の意識や目的意識などなければ人間は生活できない。
そこでカントが持ち出したのが、「人間が勝手に作り出した文脈」である。
それは、「創造に代わるもの」である。
個物と個物の連関性は「人間の経験の範疇を超えている」から、「じゃあ、それを人間が作り出せばいいじゃないか」と考えた。
カントにおいて新しい宗教が生まれた。
つまり、人間教=ヒューマニズムだ。
カントにおいて、道徳とは、聖書啓示ではない。
それは、人間が独自に「自分のために」編み出したものだ。
ここで近代の原理が完成した。
後の様々な思想は、このバリエーションである。
聖書啓示から完全に独立し、人間が神と無関係に生きるための世界観が生まれた。
だから、今我々が学校教育を通じて学んだ世界観は、けっして「非宗教」ではない。
それは、他のすべての宗教と同じように「人間の経験によって証明できない前提」に基づいている。
ヒューマニストは、「我々は科学を信じる。宗教ではない。」というがうそ。
「個物と個物がなぜ創造の文脈で見ずに、人間の作った文脈で見ていいのですか?」とたずねても、彼らは答えられない。
「人間の文脈で世界を見よう」というのは立派な宗教的断定である。
それは、科学的根拠など何もない「一方的断定」だ。
「道徳の領域」は物自体の領域、つまり、叡智界に属するから。
だから、ヒューマニズムとキリスト教はライバルであり、ヒューマニストの「我々のは宗教ではないから」などという言葉にだまされてはならない。
さて、ヒューマニズムにおいて歴史的個別のすべての事件は、本来互いに連関性のなく連続して起こるものであり、その背後に計画などない。
あったとしても、それは神の計画ではなく、人間の計画だ。
歴史は神の計画の成就ではなく、人間が勝手に主観的に意味を与えたものであり、その意味の正当性をヒューマニズムは主張できない。
りんごと味覚の関係が「後付」の意味しかないのと同じように、歴史的個別の事件も「後付」の意味しかない。
各人が各人の意味を持たせることができる。
各人はそれぞれ神であるから、自分の主観で意味づけができる。
だから、歴史というものに、連関性も「主観的な意味を超えた意味」など存在しない。
学校で、なぜ我々が「歴史の意味」を教わらなかったのか、これが理由だ。
学校で教わった世界史や日本史は事実の羅列だ。
このような「歴史をばらばらの出来事の寄せ集め」と見る見方は、教会にも入った。
教会においても、歴史を背後の文脈を意識する見方を教えられていない。
だから、個々の出来事の雑多な詰め込みが行われている。
総合的にストーリーを描くという訓練がなされていない。
それを行う人々に疑いの目を向ける。
はっきりいって、これは「契約人たるクリスチャン」のあるべき姿ではない。
我々は聖書に基づいて「契約的文脈」を設定するように命令されている。
世界は神によって創造され、神の目的のために動いており、個別事件にはその文脈に基づいて意味があると我々は信じなければならない。
クリスチャンが信じなければならない世界史の文脈は以下のとおり。
神はアダムを、世界のエデンの園化のために創造された。
だから、我々は世界をエデンの園のようにしなければならない。
アダムが失敗したので、代わりにキリストがこられて、世界を法的にエデンの園にされた。
今の世界は、法的にエデンの園である。
しかし、この法的なエデンの園は、実際の活動がなければ「実際的な」エデンの園にはならない。
アパートの所有権を得ても、実際にそこに家賃を払わないで住み着いている人がいれば、実際の所有者ではないのと同じように、世界は所有者の意思に反して住み着いている人々がいてそのために我々は実際的には所有者ではない。
つまり、サタンだ。
彼にはもはや所有権はない。
世界はキリストのものになった。
だから、キリストの体であるクリスチャンの集合=教会は、この世界からサタンを追い出して、キリストの支配を拡大しなければならない。
その方法は、武力ではなく、謙遜である。
「柔和なものは幸いである。地を相続するからである」との御言葉のとおりに、我々は謙遜によって支配を拡大する。
人々を脅かして支配するのではなく、相手の立場に立って、同意を得ながら徐々に進めるべきだ。
人々の信頼を獲得しながら、世界の支配は進めなければならない。
小さな責任を全うし、さらに大きな責任を任される。・・・
このようにして徐々に上に上っていく方法。
人々に受け入れられながら支配を拡大する方法。
これによって我々はこの世界において我々の責任の領域を拡大しなければならない。
こうして世界はついに実際的にもエデンの園になり、歴史は完成する。
2009年12月28日
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