社会の根本的なシステムの見直しが必要だ


1.
小沢民主党代表に対する検察の捜査は、自民にまでは及ばないようだ。つまり、国策捜査。

最近、政府の機関がこのように露骨なことをやるようになった。

つまり、国民をなめているということだ。

給付金をばらまいて人気を上げ、検察をつかって小沢を貶める。なんて貧困な政治なのだろうか。

今、左右どちらを見ても、政治を導くためのイデオロギーがない。政治家自身どうしたらいいか分からないのだ。

聖書がないのだから仕方がない。

あの植草氏も、ケインズ主義者だそうだ。

政府の悪を暴いている人々が、結局、これまで失敗したことが明らかな理論しか奉じることができない。

これは悲劇だ。

ブレイクスルーが必要だ。新しい指導理念が。

しかし、誰も提示できない。

2.
「格差が広がってきた!貧困層が増えた!」と叫んでも、もし「もう一度、政府の手厚い保護を!公共事業を!」とやれば、また借金が増える。

頭をまるごと洗い直さないとだめだ。

これまでの社会主義の体制を否定するところからはじめないと出口が見えない。

まず格差は悪ではないということを認めるべきだ。

成功や不成功、努力や怠慢によって、人それぞれ受け取る報酬に差がでるのは当然。

そこで、社会格差は生まれる。これを避けることはできない。

もし頑張った人にペナルティが課せられ、成功すればするほど罰せられる今の累進課税制度を維持するならば、若者がやる気を失う。

稼げば稼ぐほど税率がアップしてどんどん取られるなんて、こんな馬鹿な制度の根本には「みんな同じになるべきだ」という結果の平等の思想がある。

誰でも、スポーツにおいて、努力や才能によって格差が生じることを受け入れられるだろう。

同じように、努力や才能によって年収に差が出ることを受け入れるべきだ。

3.
では、貧困者は、放置されるべきなのだろうか。

そうではない。

聖書では、所得の10%を貧困者のために残しておけという命令がある。

畑の十分の一を収穫してはならないとの律法だ。

これを現代に適用するならば、我々の所得の十分の一を福祉に回すべきだということになる。

それから、刈り入れの際に落ちた穀物は拾ってはならないという律法もある。

これらを現代世界に適用するならば、工場でできた余り物、形がくずれたお菓子、賞味期限切れなどを、貧困者のために残しておかねばならないということになるだろう。

4.
十分の一を貧困者に残すならば、自分の受け取るものが少なくなって大変だというだろうか。

聖書において、税金は十分の一未満に限定されているから大丈夫なのだ。

今我々はどこに使われているか分からない税金を50%近くも取られている。

様々な税を総合すると50%以上取られていると思う。

しかし、聖書に従えば、国が取ることができる割合は10%未満だ。

だから、我々の手元には多くのものが残る。

我々はその手元に残ったものを再生産に回すもよし、自分の老後のたくわえに残すのもよし、自由だ。

税金という形の投資は最悪の投資なのだ。

なぜならば、官僚は、コスト感覚がないから、我々の稼ぎを効率的に使うことができない。

自分の稼いだ金をもっとも効率的に使うことができるのは、自分だ。

なぜならば、損をしたくないからだ。

自分の所得をできるだけ手元に残しておけるようなシステムにしないかぎり、無駄遣いがなくならない。非効率的な社会がこれからも続き、ついに税金を上げても上げても借金を作り出す無間地獄に陥るだろう。

目を覚まそう!

 

 

2009年5月9日

 

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