神学校教育をむげに否定するな
最近、よく神学校教育を否定する人々を見かけるのだが、実際神学校を出てみて分かるが、そんなに無駄なことはやっていないと思う。
もちろん、御言葉を絶対の権威としないリベラルの神学校を出ても無駄だが、御言葉を敬っている聖書信仰の神学校を卒業することには意味があると思う。
たとえば、神学校以外でギリシャ語やヘブル語を学ぶことができるだろうか。独学で勉強することは非常に難しい。
語学の素養がある人でも、時間を作って新しい原語を習得することは難しいだろう。神学校に入学して、そこで一つの課程として学ぶならば、自分に覚悟もあるし、動機付けもされるので、習得しやすいと言える。
それから、辞書や様々な道具の使い方、説教の仕方など、専門的な教育も受けられるという利点がある。
学校で推薦される辞書や注解書などはやはり優れており、その道で先達がよいと認めたものはだいたいよい、というのは我々の日常的な教訓である。
たとえば、メイチェンのギリシャ語初級教本である「新約聖書ギリシャ語原典入門」は、非常にすぐれている。語学の教本一般としても、これほどすぐれたものを見たことがないほどすぐれている。
やはり専門の学校は、その道の「スタンダード」を教えてくれるという意味において通う価値があるのだ。
神学校を出ていない人は、たとえどんなに教会において重要なポストを占めていたとしても、スタンダードを理解していないという意味において、重大なハンディがある。
たとえば、改革派神学において、カルヴァン―カイパー―メイチェン―ヴァン・ティルは、一つのスタンダードな流れである。
しかし、ヴァン・ティルをスタンダードとして見ず、何か極端な主張と考えている人が長老などの中にまだいるのは、ヴァン・ティルが神学者の間でどのように扱われているかを知らないからである。
こういった常識は、あたかも空気や匂いのようなものである。
空気や匂いは書物を読んでもわからない。
しかし、旅行で実際に現地に行ってみればすぐに理解できる。
このように、「あたりまえのこと」というのは、なかなか書物や文字においては伝えられないものである。
実際に、神学校の授業に出て、教師や学生との交流を通じて習得する以外にはないかもしれない。
自分の主張が極端な逸脱にならないためにも、神学校教育をむげに否定すべきではない。
2005年1月14日
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